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セックスとオナニーの違い

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セックスとオナニーは同じことだということに気づいた。

オナニーは肉体に対して自分はセックスをしているのだと錯覚させて射精をさせる行為だ。オナニーはいわば肉体のハッキングだ。肉体はオナニーとセックスの区別をつけられない。だから射精をしてしまう。肉体は射精の回数をセックスの回数として数えるだろう。その都度回数に応じて精子の補充具合を決定するだろう。

セックスとオナニーを区別するのは人間の意識である。しかし人間の意識はその基礎を肉体に持つ。同じ射精という現象から人間はセックスとオナニーという別の意識を持ってしまう。それは別にいいがセックスができないからと言って悩むのは間違っている。オナニーも立派なセックスだ。

それよりも、肉体に対してオナニーというハッキングを仕掛けるのは誰なのか。それが問題だ。男自身ではあり得ない。そうする合理性がない。セックス、つまり性交渉という肉体の本来の目的を達成するために女を探すほうがよい。肉体は肉体自身のために女を探し求めるだけだ。人間は1つの肉体以上のものではないから男自身が男をハッキングするわけがないのである。

では男が女を探し求めることを抑圧しているのは誰なのか。男にオナニーを強いているのは誰か。社会、人間集団、共同体、超自我、そういう言葉がすぐ浮かんで来るが違う。ならばそれらを生み出している主体は何なのか、という問いがすぐ後ろに控えているからだ。

絶えず社会を再生産する何者かの存在。それは人間を媒体として生息する。人間に寄生して生き延びる。人間(まあ、ここではとりあえず男に限るが)はオナニーをすることで、つまりセックスをしていると思い込まされている時点で、何者かに洗脳されている。ハッキングされている。

何者か。それは端的に言って言葉そのものだろう。人間は言葉そのものが生き延びるための媒体でしかない。人間が生きているのではない。言葉が生きている。人間はただの道具であり物質に過ぎない。言葉を聞くこと、語ることは、言葉の呼吸であり食事であり生命活動だ。

言葉が生き延びる上で社会は必須だった。人間社会ほど活発に言葉を必要とする集団の在り方は考えられないだろう。言葉を持たない動物たちの社会はいくら複雑に見えても人間のそれには比較すべくもない。

人間が絶滅しても言葉を介する生命があるなら言葉もまた生き延びるだろう。言葉こそ最も後に生まれた、生命の最も新しい形態なのである。

人間は言葉に寄生されている。そこからの根本的な治癒は肉体から言葉を追い出すこと以外にない。それはいまの人類には不可能だ。だからこそ言葉を用いない健康に戻れる時間というものが人間には必要なのだ。そういう時間がなければ、人間は言葉という寄生虫に体中のエネルギーを食い尽くされ死んでしまう。それこそが自殺だ。言葉が食うエネルギーとは心的なエネルギーである。心的なエネルギーが尽きれば何も感じない人間と成り果て、死ぬ以外ないと考え始めるだろう。

 

疲れていてなんのやる気も出ない。このまま溶けていって無くなるのではないかと思う。心に大きなウロがある。なにかやり残したこと、もしくは失ってしまったものがある。にもかかわらずそれがなんなのかわからない。

疲れているにも関わらず眠ることができない。眠れない。体を疲れさせれば眠れると思っていた。しかし間違いだった。眠ることすらできない肉体は完全に不良品だ。疲れているので活動もできないのだ。