hkmaroのブログ

読書の感想など

アニメは人間の心を救う

今年の春からアニメをまた観るようになった。

どうしても生きる気力がわかなくなり、何もやる気が起きない日々が続いていた。あんなに好きだった音楽はほとんど聞かなくなったし曲も書かなくなった。まるで興味がわかなくなった。ギターはたまに弾くし歌もたまに歌うのだが、以前ほど自分の軸に音楽があるとは思えなくなっている。

小説も全く読まなくなった。小説を書いている人たちは自分と違って小説を書きたいという欲望に恵まれている人たちなのだと思えた。欲望は生きる上での希望である。欲望のない人間は死んでいるも同然だし、死んでいるどころか排泄物は出し続けるのだから製糞機以上のものではない。小説を書く人、読む人は、それだけで幸福な人たちのように見えて仕方がなかった。

まして映画は興味の対象にならなかった。マンガも読まない。一体何が楽しくて生きているのかまるでわからない。

欲望は人間の生命の泉だ。欲望がなくなればどんな景色も色という色を失ってしまう。私にはあらゆるものの意味がわからなくなっていた。道行く人達の生きている意義、その人達が欲望のもとに追い求めるものの存在する意義がまったく理解できなくなっていた。

ここ数年はそういう日々が続いている。仕事が辛いのでもない。人間関係が辛いのでもない。ただただ時間が重りのように感じられるのである。これを書いている今だってそうだ。時間は欲望によって意味を付与される。意味とは強度だ。時間の密度は強度によって感じられるのだろうが、それは同時に強度によって意味づけられるだろう。意味と強度は対義語ではない。私の時間には強度という強度が欠けていた。時間から意味という意味が根こそぎ剥がれ落ちてしまっている。

この何も無い時間を耐えるのが苦痛で苦痛で仕方がなく、時間を消し飛ばす方法を考え続けていた。酒を飲んだ。ゲーム機を買った。とにかく早く寝ようとした。過食をした。むやみやたらと出かけようとした。全て無駄であった。確かにそれで一時は時間を消すことができる。しかし、そのしわ寄せは必ずやってきた。つまり、酒を飲んでいてもゲームをやっていても寝ようとしても食っていてもどこに出かけていても、時間はいつも重いということがわかってくるのだ。鉄塊のようにひたすら重く色あせた時間が厳然とあって、私から離れようとすることはなかった。

だがついに私は時間を消す方法の一環としてアニメを観た。Amazonビデオとdアニメとバンダイチャンネルを契約した。最初はコードギアスを観た。一気に全ての話数を観た。観ている間、私の時間は確かに色を取り戻した。文字通りアニメの画面が色に溢れていることは無縁ではないだろうし、声優の声色が色に溢れていることも関係しているだろう。だがアニメを視聴するという体験はそれらを全て含んだ上で突然やってくることだ。それは向こうからやってくる。私が面白いアニメを観ようと思ってコードギアスを観たのではないことは確かである。私は時間をどうにかしてやり過ごしたくて、せいぜい自分を騙すための麻薬としてのアニメを求めていたのである。しかし作品はその役目を見事に果たしたばかりではなくそれ以上の効能をもたらした。コードギアスを観ている間の日々には、色があったと思うし時間は軽かった。

その時から私はほとんど10年ぶりくらいに「今期のアニメ」を毎週観るようになった。観るようになったと言っても、全ての作品を観ているわけではもちろんない。ただ、決まった作品を週に一度ずつ観るということによりこの重くて無味無臭で耐え難い時間がある程度は耐えやすくなったということを実感している。

私は今期、

以上の作品を観た。サクラクエストRe:CREATORSは2クールなので視聴を継続するつもりだ。たった6本だが、最近の私の精神状態から言ってこんなにも沢山の作品を定期的に観るというのは考えられないことだ。本来なら異常な努力を要する作業だ。だが私は観ている。暇な学生時代なら知らず、今の私は日中働いている上に欲望や意欲がまるで湧いてこない。それなのにアニメを観たいという意欲だけは継続できたということに驚いているのである。そして、アニメを観ることによって確かに私はつい最近までに比べて少し救われている。

個々の作品についての感想や批評を行える段階にはまだない。そこまでの感受性は取り戻せていない。ただ、少なくとも視聴したいと思わせてくれる作品であったことには間違いない。そのことに私は、私としては珍しいことなので本当に自分でも驚いているのだが、これらのアニメとそれを作った人々に感謝をしたい気持ちになっている。こんなふうな欲望、意欲、感受性がまだ自分にも残っていたということが感じられて、まだかろうじて生きている状態を継続することができると思えた。生きることが良いこととは思わないが、生きていることに意味を見いだせない時間は端的に苦痛なのである。しかも、そうなる前の自分には到底想像もできないような苦痛である。

今も苦痛は続いている。時間は重いままだし、無味無臭だし、以前の感受性が自分に戻ってきたとは全く思うことができない。今もって自分が「ある程度までは救われた」とは全然思うことができない。ただ、それでも、マシになったとは思える。これはアニメのおかげなのである。だとしたらアニメが人間の心を救うと言えぬ訳がない。

しかし、ここまでつらつらと書いてきた自分の文章を眺めて思うが、私は一度心療内科に行ってみたほうが良いのかもしれない。