hkmaroのブログ

読書の感想など

時代が何を必要とするのか

時代は何も必要としていない。社会は完成されてしまった。社会はそれ自体で存在している。歴史は終わった。議論というものはもう存在しない。

時代が必要としている言葉だけが注目されるという者がいる。確かにそうだろう。しかしそれだと何も言えないことになる。安倍死ねだとか在日死ねだとか日本死ねだとかいう言葉は時代が必要とした言葉なのだろう。しかしそんなことは言われなくてもわかっていることなのだ。それを度々繰り返して発言し、自己言及を繰り返しているのがこの社会だ。だから社会は円環を閉じている。社会は外部を必要としていない。否定の契機を必要としていない。弁証法を必要としていない。歴史は終わったのだ。

ならば私のようにこの世の一切を否定する人間がやるべきことは歴史を再び始めること以外にはありえないだろう。時代を再び未決の状態に差し戻すこと以外にはないだろう。それはノスタルジーによってはなすことができない。ただ否定によってなすことが可能なのだ。

どんなに死にたい気持ちになってもこの世を否定し続けることだけが望みだ。死にたくなっても生きる動機は否定にしかない。否定はもはやこの世には不必要なものだ。だから私は不必要なことをこそ行わねばならない。

ゴミやクズは産業廃棄物を大量に集めて叩きつけなくてはならない。