hkmaroのブログ

読書の感想など

話題のことについて思う

身体障害者が飛行機に事前連絡無しで乗ることについて話題になっている。

原則として、身体障害者が健常者に比べてコストになるのは事実である。このことは身体障害者を差別するのかどうかとは関係ない。輸送サービスならなんであれ質量の大きい貨物や体積の大きい貨物がよりコストになるのと同様の意味でコストだということだ。 

なぜコストが大きいと言えるのか。この世は多数派である健常者が自分たちのために作ったシステムの上で成り立っているからだ。健常者であることを前提しているからだ。そこに身体障害者も問題なく使える仕組みを付け加えようとすると、当然効率の悪い運用とならざるを得ない。だから一見それは設計の問題のように見える。

設計をやり直せば良いという考えかたもある。健常者にも身体障害者にも対応できるという要件を(サービス提供者や利用者やそれを包含する社会の意識という)低レイヤーから組み込み、その上に個別のシステムを付加すればいい。確かにそうすれば今よりはマシなシステムが出来上がるのかもしれない。

だが、健常者が使う限りにおいて、健常者しか利用しないことを前提に設計された単純なシステムの効率と、健常者も身体障害者も利用することを想定したより複雑なシステムの効率とを比べて考えることが必要だ。それによって本当の意味での「コスト」の重さが見えてくるはずだ。

コストと言うとき誰がなんのために支払うコストなのかが問題だ。この場合に健常者が身体障害者のために支払うコストだと考えられている。そのことが表面上の論点となっていて、敢えて事前連絡無しで飛行機に乗り込もうとすることによってそのほかの健常者が余計に支払う時間的・金銭的コストと、身体障害者が享受する利便性を、ほとんどの世論は天秤にかけている。

だがこのコストの考え方は独りよがりだ。言うまでもないがこのような観点は健常者の懐具合しか目に入ってない。我々はコストを容認すべきだと言うリベラルな思想であっても、逆に我々にはそのようなコストを払わされるに足る正当な理由はないと言う「現実主義」の思想であっても、それをコストの問題だと捉えてしまっている時点で「我々」の中に身体障害者が含められることはない。 

「我々」はこの問題を考えるにあたっては身体障害者でもあり健常者でもある必要がある。「我々」が国民というレベルで話すのか消費者というレベルで話すのかに関わらず、身体障害者をも含めた「我々」でなくてはならない。だが身体障害者を差別してはならないからそうなのではない。日本が身体障害者の存在を認める場所として存在している以上そうである必要があるのだ。

身体障害者を認める場所であるということは、身体障害者を当然に包含することを前提とした場所であるということだ。だからいかなる場合にも「我々」は身体障害者でもある必要がある。「我々」とはそのような全体の謂いである。そのことが往々にして忘却されるのは、身体障害者が差別されているからというよりは、そもそも人間にとって全体を意識することが非常に困難だからである。人間は自分が住んでいる場所の全体をうまく意識できない。それによって差別という現象が生まれると言った方がいい。

だから「身体障害者の視点から考える」といったようなリベラルな理想を追求するなら、全体のことを絶えず意識する必要があるのだ。全体は、全体自身のためを本当の思うのであればどんな「コスト」でも支払うだろう。他ならぬ自分自身の利便性を得るためなのだから。

現実主義者にとっても全体は重要である。現実的に考えても社会は総動員の体制にある方が効率が良いからだ。そもそも近代社会は何らかの「総動員」を経て成熟する。そこでは男も女も子供も老人も自らがなし得る限りのことだけをなし、それによって全体が成就するという構造があるからだ。そこに身体障害者も含まれるべきであることは言うまでもない。

全体だけが、本当に考えるべきことなのである。健常者だろうが身体障害者だろうが全体のことを考えるべきだ。