hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

 どこかに安住の地が欲しいものだ。気軽に愚痴を言っても許されるような場所が欲しい。 

 最近、愚痴めいた言葉を吐き出す場が少なくなったと感じる。要因はなんだろうか。愚痴りたいことが増えすぎたのか。それとも、単に本当に愚痴を言える場所が少なくなってしまったのだろうか。まあ、どちらでも良いことではある。大事なのは、愚痴れるかどうかなのだ。愚痴に関する考察ではない。愚痴るには多分、スナックにでも行けば良いのだろう。一人でスナックに入るための胆力と金力が欲しい。

 三日前から風邪をひいて寝込んでおり、今日は治りかけで、外出して酒飲んだりするのはちょっときついが、さりとて部屋でひねもす寝転んでいるのも辛いという状態であるから、本を読んでいた。スガ秀実の『革命的な、あまりに革命的な』だ。意外な人物たちの革命性が論じられていて面白い。例えば大江健三郎の60年代の作品にはファシズム的な、保守革命的な要素があるという論は感心した。確かにオーケンの60年代の小説は面白い。特に「性的人間」「セブンティーン」などは楽しく読んだ記憶がある。大江本人の戦後民主主義者的発言など無視して良いという主張も良い。確かに無視して良いようなことしか言ってない。

 スガ秀実という人は現在活躍している著名な批評家の中では1968ということに強くこだわっている稀有な批評家である。色々本を読んでいると、この1968という年がいかに重要だったかがわかる。先日『創られた「日本の心」神話』を読んだ際にもそれを感じた。1968がなければ今日的な大衆文化というものはなかったろうし、文化的ヘゲモニー共産党的エリート主義に席巻され、日本はさながら共産圏の国のようになっていたかもしれない。まあ今日の大衆文化もダメだとは思うが、俺は共産党員が書いた小説など読みたくもないし、共産党員が作ったテレビ番組など想像しただけで寒気がする。

 しかし大衆文化は現在、1968の頃と比べて大きく変貌してしまった。新左翼の人たちが仮託した土着性や泥臭さ汚さ、それ故の純粋さを、もはや持っておらず、「動物」「畜群」と表現したほうが当たっている様な何かになってしまった。彼らにおいては生殖も排便も食事も同じことである。生殖と排便と食事だけが延々と続いていく極めて効率の良い人類の社会だけが残ってしまった。俺は1983年に生まれたが、その35年前に生まれたかった。そうであれば、生殖と排便と食事以外にも、人間にするべきことが他にも有ったのだ。そのことが羨ましくて仕方がない。