hkmaroのブログ

読書の感想など

八月十日 『げんしけん』二代目について

八月十日

昼:カレー。夜:牛丼。

昨日の日記は意味不明だが、これはロング缶のアルコール9度のチューハイを飲んでいたためだ。昨日は会社帰りにGUNチャンとすれ違う。妹です、などと紹介されたが、妹は姉よりもよっぽどマジメそうな人だった。

阿含経がちくま学芸文庫に入った。一巻が出ている。もちろん買った。これから始まる、法悦の夏。

げんしけん』の二代目、今出てる十二巻まで読んだ。斑目が春日部さんに告るかどうかという話の流れは、笹原が荻上となんとかなるのかどうかという話のラインと同程度にどうでもいいしらける話であったが、波戸クンが斑目さんとどうなるのかという話の流れは、一代目後半部分のエロゲ的・マンガ的・フィクション的なご都合主義をむしろ徹底することにより超越したの観があり、これは自然主義とは別種の面白さがある。また男の娘という観念が現実世界に共有されているのを前提にして作品世界に敢えて持ち込まれたメタ的な要素である波戸クンが、実際に男の娘的な恋愛を斑目とし始めようとしているかのように見える展開は、エロゲ的な嗜好を持つ笹原が実際にエロゲ的な恋愛をしてしまうという展開と似た構造を持っているにもかかわらず、そこに笹原荻上間の恋愛みたいなつまらなさがないのは、おそらく波戸と斑目との間に成り立ちうる恋愛にはロマンティックラブの範形から逸脱する要素が大きく、全的なロマンが成立しないからであろう。波戸と斑目の恋愛は、それが成立してしまったとするならば、通常の恋愛小説や恋愛マンガが描いてきた範形に比較して一種の滑稽味を帯びざるを得ないし、少なくともそれがロマンティックな恋愛物語の文法で描かれることへの場違い感が生じざるを得ない。

波戸とひばりくんを比較してみるのも面白い。波戸にはひばりくんにあった聖ビッチ性が存在しない。むしろ反ビッチ的である(e.g. アンジェラの件)。また、ひばりくんが無自覚的に男と女を使い分けていたのに対し、波戸はかなり自覚的に男と女を使い分けている。女であることの不可能性への自覚がある。象徴的なことに、波戸にはひばりくんには決して生えなかったヒゲが生えてしまうのだ。波戸と斑目のドラマにおいてすばらしいのは、波戸が女の姿のときは斑目に対する態度はBLの材料の範疇を大きく超えるものではないのだが、むしろBL的関心を超えて斑目自体への恋情めいたものにより波戸が行動するとき、彼が男の姿になるという点である。波戸は女の容姿を使うことによって斑目を誘惑するということがない。彼の女としての容姿が女以上に女的であるからこそ、この事実は重い。逆説的に、波戸が男の娘であるがゆえにこそ、より一層同性愛的な恋愛感情がこのマンガに漂っている。これは一般的なBLや男の娘ものに描かれる男同士の恋愛とは少々趣を異にしているように見える。斑目の春日部へのひきずった恋愛感情に対する波戸の過度に感情移入的な同情は、男同士でなければ成り立たないものであり、それをきっかけにしてこそ波戸と斑目の恋愛(めいたもの)も生じてくる。この男同士の絆は極めて甘美である。波戸がいかようにでも姿形は女になることができるからこそ、この甘美さが激しく浮き彫りになってくる。この場合、「お前(俺)が女だったら惚れてるぜ」的なセリフが冗談でもなんでもなく成立し得るのである。なぜなら波戸は女になれるからだ。

対して、この二代目には腐女子のコミュニティも平行して描かれるわけであるが、これが本当につまらない。女であることのつらさが何も描かれていない。まあ、それが描かれたからといって面白いのかという問題もあるが、女斑目としての矢島を登場させる意味は、初期げんしけん的な手法で腐女子を描くという自然主義の目論見があったからなのではないのか。そうでなければ、矢島もまたドラマ的なご都合主義の構造に組み込まれねばならないのだが、そうしたものが波戸斑目カップリングにおける男の娘という跳躍的要素を持たないのだとすると、笹原荻上カップリングと同じようなメタドラマ内でしけたご都合主義ドラマを再生産するというくだらない大団円をしか迎えないだろう。そういうサムいドラマを好む向きには良かろうし、そういう無味無臭のマンガこそもしかしたら売れるのかもしれないが、これほど失望させられる展開もあまりない。是非矢島には夢も希望もない絶望に満ちた喪女大学生活を演じてもらいたいものだ。が、げんしけんなんかに入って友達もできプロ漫画家のアシスタントもやりというリア充真っ最中の彼女には、時代のマンガ主人公類型を規定する影響力はもはやないしこれからもないだろうと見るのが順当である。

つまり何が言いたいのかというと、もう波戸と斑目だけ出してればいいよ、このマンガはよぉ。