hkmaroのブログ

読書の感想など

八月七日

八月七日

昼:パン。夜:西友で豚肉を買い、炒めて食う。不味い。

エヴァの新劇でテーマ曲を歌ったのは宇多田ヒカルであったが、これには虫唾が走った。最近、同じように虫唾の走る出来事があった。城戸沙織を中川翔子が演じるというのである。なんで世の中こういう空気の読めない決定が下され、それが通ってしまうのだろうか。Zガンダムのキャスティングもそうだ。空気が読めてない。エヴァだとかガンダムだとか聖闘士星矢だとかという個々の作品が、もはや社会的な共有物となっていることに対する意識の低さ。実際には共有されているものであるにもかかわらず、作品から生まれる利益に群がるステークホルダー達は、自分たちこそがその所有者だと思っていて、というか権利を握る自分たちこそが作品を生み出した者なのだと誤解していて、それゆえ空気の読めない判断がまかり通ってしまうのだ。実際には作品の観念は製作者も消費者も関係なく共有されているし、その共有された観念が次の決定を規定する。共有された観念に照らし合わせれば、城戸沙織を中川翔子が演ずるなどというのは言語道断であるということは明白であった。あの冷徹な殺人マシーンのように一切の感情のあとが見られなかったアテナ沙織が、今どうなっているか。沙織さんは、まったく人間味を持たないからこそ、五人全員が孤児であり母を失っているという来歴を持つ聖闘士たちの空虚な存在理由を埋め合わせる者として適切であった(ちなみにマンガでは父は城戸光政である)。子供の目からしたって、あんだけ何度も倒される、どう考えても弱いヒーローでしかないブロンズセイントたちが、「アテナのために、ここでやられるわけにはいかないんだ……!」などという全くもって理解不可能な理由で立ち上がるのは奇妙なことこの上なかったのだが、それがわかっていても何か胸を打つ感動がそこに現れるのも事実であった。しかし、今ならおぼろげながらその不可解な感動の理由がわかる気がする。具体的な母にはもはやすがることのできないセイントたちは、アテナ沙織という極めて具体性を欠いた抽象的な母親の力により駆動されるしかないのだ。五人のブロンズセイントは、作中で、実利以外の何か(つまりアテナ)のために闘っている、として、言わば世俗を超えたあの世的な価値のために闘っている者として輝かしく描かれるのであるが、しかし私にはどうしてもそれも違うように見えてしまう。アテナという項自体が何かの代理に過ぎないのではないか。何かのために闘っている、という事実を得るために、つまり自己目的的に星矢たちは何度でも立ち上がるのではないか。そして、そういう運命のもとに生まれたブロンズセイントの哀れな姿が非常に胸を打つのだ。