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hkmaroのブログ

読書の感想など

七月三十一日 吾妻ひでおについて 1

七月三十一日。昼:てんや。夜:桶家。桶家とは新所沢の居酒屋で、安くて旨い。

M岡さんに貸してもらった吾妻ひでおを読み始める。吾妻ひでおはロリコンマンガとか萌えとかの元祖であるとか言われる傾向のある作家だが、そういう捉え方をしている大塚英志自身が吾妻は単なる萌えの枠組みを大きく踏み越えた作家だという評価をしていたように記憶している。実際に読んでみたら、吾妻はマンガというよりカフカとかと比較して語られるべきなのではないかという印象を持った。しかしながら、既にネット上にある吾妻とカフカを重ね合わせて語る言説として、こういうものがあるが、私は全くこれとは逆の意味でカフカ的だと思う。この増田の人は吾妻は世間一般で思われているよりもずっと自覚的に実験的なマンガを書こうと努力していたのだ、あたかもカフカがそうであったように、ということを言いたいのであろうが、むしろ私が二人の間に共通点を見出すのは、その無意識に頼った作風においてである。吾妻は何度もコマの枠外に「自分でも何描いてんのかわかんねー」的なコメントを入れるのだが、言うまでも無く、吾妻自身何を描いているわからないようなところこそが吾妻マンガの本領である。単にナンセンスである以上の「何か」を読者はなんとなく感じとる。これは、市川春子の感想を書いたときにも引用したエリオット的な身体性とは違うものだ。なぜなら吾妻マンガにおける未規定的な「何か」は明らかに伝統の観念とは全く反対のものだからである。それは伝統に依存した空気みたいなものを脱臼させズッコケさせるアンチ空気のようなものだ。そういう脱臼の要素は、例えば「ぶつぶつ冒険記」の冒頭で、ぶつぶつ君の宇宙海賊への夢が、自分自身や親や幼馴染がみんなナンバー1からナンバー5までのクローンとして複数的に存在しているという設定によって、あらかじめ挫折させられているところに象徴的に表れている。ぶつぶつ君の宇宙海賊としての冒険記は所詮複数存在するぶつぶつ君の物語の一つにしか過ぎず、このぶつぶつ君独自の物語というものは存在しえない。もちろんこの話は、そうした複数性から脱却しようとしたクローン個体の物語としても読めなくはないのだが、ありきたりなスペオペ的展開は実際に訪れることがなく、脱臼され続ける。そして当然脱臼されるのはスペオペ的冒険譚だけではなく、マンガの持つとされる「間」の表現のようなものもそうだ。「とつぜんDr.」ではその「間」は「マンガを早く終わらせるため」というような露悪的でメタ的なセリフによって脱臼させられる。これらの脱臼の表現が本当に無意識的創作によるものなのかどうかは微妙だが、この傾向の延長上にある諸々のナンセンス的表現が無意識的に書かれていることは明らかで、そこに意味を付与しようとすると読者自身のこじつけが介入せざるを得ないほどである。このような吾妻マンガが招来する読者優位の状況は、断言したいが、カフカの小説が持つ性質が帰結する状況と同じだ。エリオット的な身体性を保守的未規定性とでも呼ぶとすれば、吾妻・カフカ的な「何か」は反保守的未規定性だと言えるだろう。だからといって吾妻マンガの持つような性質がアンチ空気だから賞賛すべきだとは手放しには言えず、むしろどんなものでも読み込めてしまうが故に一層クソ・ゴミ・カスみたいな独善的で夢想的でこじつけそのものの吾妻論を蔓延させてしまうことにもなりかねない。カフカがそうであったように。

吾妻を読むときにもドゥルーズカフカ論が非常に参考になると思われる。ドゥルーズカフカ論は、カフカの小説に対してあらゆる感傷やロマンを読み込む独善的かつ夢想的な文学青年的読解を痛烈に攻撃するものであった。そして、カフカ自身にすらも何を書いているのかよくわからない未規定性が、例えば資本主義や官僚主義の構造を予言的に浮き彫りにするのであって、そこにこそ優れた作家の本領があるのだ、というような論であったと記憶している。全く同じことが吾妻にも言える。もちろん吾妻のマンガがマイナー文学的であるかどうかは不明ではあるが、めずらしく「文学」的作風を持つ「冷たい汗」なる短編を見ると、SF文壇で当時もてはやされコンベンションに幾度も呼ばれていた吾妻が、実はその雰囲気になじめず、冷たい汗を流していたらしいということが読み取れる。同作品内において、吾妻本人と思しき人物以外のSFファン達のセリフは、吹き出しがあるだけで中身は空白である。ここに吾妻とその他のSFファン達の間に横たわる絶望的な言語的断絶を読み取ることは決して不自然ではない。その意味で吾妻がある種のマイナー文学の書き手であると述べることも、そうそう無理な推論ではないように感じる。