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hkmaroのブログ

読書の感想など

七月二十九日 『ストップ!!ひばりくん!』について

七月二十九日。朝昼晩とスパゲティー三昧。

『ひばりくん』三冊を読んだ。江口寿史がギャグ漫画家だというのもあるのだが、この時代のラブコメはいわゆる萌えの要素はどちらかというと薄く、現代の眼からみると、むしろギャグ要素がメインのように見える。とはいえ『ひばりくん』のときには現代にも通じるラブコメの文法は既にほぼ完成していたと見え、現代のアニメ・ラノベ等のラブコメに親しんだ中高生でもほとんど違和感なく読むことができるだろうと推測できる。というか私自身にとっても、自分が生まれる前に連載されていたマンガであり、そういうマンガを古典としてではなく普通に楽しくラブコメとして読めるということが一種驚くべきことだと思う。八十年代のアイドルを今見るとキツいのとは大きく異なる。そのほか、八十年代に流行っていた大衆音楽を今の若者は素朴には楽しめないだろうし、ドラマなんかも見てられないだろう。マンガも絵柄やギャグのノリに関しては大分断絶が感じられはするものの、ラブコメ的展開のパターンについては全く問題無く「萌え」られる。現代のラブコメと違うのは、主人公である耕作とひばりくんの関係性に目立った進展があまり見られないことで、現代の萌え豚としてはそこが非常に惜しいところである。しかも『ひばりくん』のエロ同人やSSなどは、検索してみてもなかなか見つからない。まことに欲望が寸止めされている感じがしてもどかしい。

ひばりくんは恐らくそれ以後の男の娘ものの文化意志を根底的に規定しているマンガだと言えるだろう。私がみたことのあるTSもの、TGもののラブコメには、これを踏襲したと思しき展開が多数出てくる。たとえば「実は男」であることがバレそうになったりそれを周囲の人間が取り繕ったり、という展開はTSやTGに固有のものであり、そこで用いられる小道具は、体育の着替え、身体検査、(双子・きょうだいなどの)入れ替わり、などである。また、TSやTGでは「実は男」であるがゆえに男の娘(便宜的にTSの場合も性転換する主体をこの語で扱うが)たちは過剰に「女性」なるものを演じなければならない。彼らは「実は男」であるからこそ典型的な女性なるもの、理想的な女性なるものを体現しようとするし、事実そこには社会的に共有された(少なくともマンガ文化圏においては)「女性」なるものの一般的な観念(つまり「女性」なる幻想)にきわめて近いものが表現されていると思われる。ひばりくんの場合はもちろん「女性」というよりも「美少女」の観念なわけだが。

そしてひばりくんが表現している「美少女」は、作中では「小悪魔」とも表現されるようなものである。私としては「小悪魔」というよりは聖なるビッチというか、よくエロマンガに出てくる、悩んでる男に自分のエロエロな体を一時的にささげる事で、相手に元気を与える、というような役割を演ずるグラマーな美女と似たような性質を感じた。最近のエロマンガにはあまりいないのかもしれないが、コンビニによく置いてあるオッサン向けのエロマンガ雑誌にはよくこういう美女が主人公に据えられた、毎回様々な悩みを持つ青年たちが出てきて、彼らをセックスで励ます、という話があった。ひばりくんにはそうした女性像そのものとまではいかないものの、男でさえあれば大体どんな人間に対してもしなを作ることに抵抗を持たないような性格に、似たものを感じ取った。

あと、ひばりくんは見た目や性格や振る舞いはきわめて女性的だが、能力としては並みの男性以上に男性的である。喧嘩は本物の極道よりも強く、ボクサーよりもボクシングが強く、スポーツは何をやっても一番で、ロックバンドでも大いに活躍する(ちなみに学業成績も学年トップである)。これらの設定はもちろん「荒唐無稽」なのだが、このような女性でもあり男性でもある、という、単に身体が男性だからというような表面的な理由を超えたインターセクシュアリティを持つ。彼には男性臭さも女性臭さもない。ここでいう男性臭さとは例えばこのマンガで言えば耕作をはじめとする男性キャラの無自覚な浮気性であり、女性臭さとは例えば陰険ないじわる女として登場する花園かおりの嫉妬深さだ(ちなみに花園かおりは私がひばりくんの次に好きなキャラだ)。要するに、男性・女性おのおののダメな側面であり、動物的な側面だ。ひばりくんは、男性でもあり女性でもあるのだが、それにもかかわらず両方の性の良い側面だけを掛け合わされていて、ダメな側面は一切受け継いでいない。ひばりくんがいくら「小悪魔」で「ビッチ」的だとしても、話の後半ではほとんど耕作一筋となっていることがなんとなく示されているし、それゆえせいぜい耕作を嫉妬させるために耕作のライバルである椎名をおちょくる程度となってしまうし、また、いくら「嫉妬深い」といっても耕作が他の女に気をとられていることに対して半ば無自覚的にやきもちを焼くといった可愛げのあるものに過ぎない。これらの諸性質はむしろひばりくんの耕作に対する一途さを暗示するにとどまり、逆にひばりくんの人間性を強調するものだ。ここで私が思い出したのは、もちろん『メトロポリス』のミッチイである。ミッチイもやはり、男性でもあり女性でもあるような存在であった。『メトロポリス』は1949年の作品であり、1956年生まれの江口寿史にとっては既に(現代性が重要なマンガの性質上特に)「古典」に類するマンガであっただろうし、そもそも各々の作品が背負うジャンルとしての文脈が全くことなるのに、それにも関わらず理念的な人間性や脱臭されたインターセクシュアリティという共通項を指摘することが不可能ではないということは非常に興味深い。