読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

七月二十八日

七月二十八日。昼は新所沢ブックオフのサービス券の期限が切れそうだったのでマンガを買いに行った。『どろろ』の文庫三冊、『ストップ!!ひばりくん!』ハードカバーの完全版三冊を買う。概ね105円。『どろろ』は読んだ事がないものと思って買って読んでたら明らかに知ってる話ばかりで、どうやら私は既にこれを持っていて読んだらしい。自分のバカさ加減に呆れた。

夭逝した大学の先輩の墓参りに所沢聖地霊園へ行った。墓参り後に高田馬場へ行きみんなで飲む。色々と激論が交わされた筈だが詳細には思い出せない。夜12時頃帰宅し気絶。何か非常にうまい定食のような飯を食おうとしているがなかなか食い始められない、という不可解な夢を見る。

これを書いている翌二十九日は二日酔いで目が覚めたわけだが、二日酔いの朝には不思議な事に共感覚的な神経が活性化しているような気がする。本を読んでいると、活字がやたらと具体性を伴って感じられるのだ。これはいつも二日酔いのときはそうである。何か、脳みその理性でものごとを考える部位が二日酔いのせいで衰えていて、逆に感覚でそれをする部位が一時的に機能を補っているのだろうか。素人の推測ではあるが、そうだとしたら普段の読書の快楽を大きくするためには、むしろ理性でもって読むと目的に適わない。そういう読み方が良いか悪いかは別として、考えずに読む、という方法があり得、また、快楽としての読書をする上で、ほとんど無意識的にそういう方法を採っていることもあり得るのかも知れない。例えば、マンガやエロゲーは絵と文字の両方を同時に描き、また知覚させる表現だと思われているが、本当にそうか。マンガでもエロゲーでも、実際には読者は文字をこそ読んでいるのではないか。そしてそこで読まれる文字は、文字だけの本よりも「考えずに」読まれるはずだ。別に学校の先生みたいに、だからマンガやゲームはダメなんだと言いたい訳ではない。逆に、「考えずに」読めるから良いという側面のほうが大きいわけだ。なんで「考えずに」済むのかというと、当然絵が付属しているからである。マンガやエロゲーにおける文字は、もちろんそういう努力が文体(平易な文)にも字体(フォントいじり、描き文字等)にも重ねられてはいるのだろうが、相対的に直感的に読むことができる。ライトノベルは、そういう文字の直感性を、文章そのものに内在させた形式を顕著に持つ小説だと言う事が恐らく出来、それゆえページの下半分はメモ帳になってしまうのであろう。マンガやエロゲーの複合知覚的形式が必然的に持つ性質をライトノベルが文字のみの表現内部に還元させる例としてもう一つ、マンガにおいて「荒唐無稽」と言われるような要素を、ライトノベルは「安易さ」あるいは「イージーさ」として持つのだと思われる。SF小説とSF的ライトノベルの違いは、この「安易さ」の有無に由来すると思われるし、そこには同時に文字の直感性の有無も差異の要素となっているはずだ。

ライトノベルがこの「安易さ」を単純に自己批判してリアリズムを獲得しようとすると、結局は既存の小説と同じ物ができあがってしまうだろうから、真に実験的なライトノベルがあり得るとするなら、それは犯し難い「安易さ」をどこかに保持し続けるものでなくてはならないだろう。現在では、それは美少女であり萌えでありハーレムでありラブコメであろう。これこそがライトノベルにおいてSFだのファンタジーだの伝奇だのというサブジャンル(ラノベでは逆にこれらはサブである)を横断して流通する「形式」だ。マンガ的でエロゲー的な文字の直感性と、ストーリーの「安易さ」を持ち合わせる小説が恐らくライトノベルだ。本来いくらライトノベルといえども小説なのだから、そこには個々のSF小説やファンタジー小説があるだけのはずである。そこに無理矢理ライトノベル固有の「形式」を見出そうとしたら、私はこの二つの性質こそがそれだろうと考えている。