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hkmaroのブログ

読書の感想など

七月二十七日

七月二十七日。昼:てんや。夜:味の一番館から揚げ丼。

昨日のことではあるが、ようやくテリー・イーグルトンの『リテラリー・セオリー』を読み終えた。三四ヶ月かかった上に、多分内容の半分も理解していないが、やたら達成感だけはある。私が読んだのはアニバーサリーエディションなのだが、本編のあとに追加された文章中にこうある。

Among the more glamorous commodities which postmodern society has on offer is cultural theory itself. Postmodern theory is part of the postmodern marketplace, not just a reflection upon it. It represents, among other things, a way of amassing valuable 'cultural capital' in increasingly competitive intellectual conditions.



(以下拙訳)



ポストモダンの社会において売りに出されている益々膨大な数の商品の中に、文化の理論それ自体もある。ポストモダンの理論はポストモダンの市場の一部であり、それへの単純な反省ではない。それは、様々なモノの中で、益々競争の激しくなっているインテリ事情において価値ある「文化資本」を蓄積する方法の代表例である。

私の貧しい訳では何のことだがわからないかもしれないが、要するにポストモダンの思想それ自体がポストモダンの商品だということなのであって、ポストモダン批判の言葉すらもが知的アイテムという商品であるということなのだ。現代思想の本自体が高価な商品であり、読んでるとかっこいいと思われるファッションでもあるということなのだ。こういうことを自己批判できない奴は、往々にしてやたらと固有名詞に頼る批評オタクである。しかし日本では現在までの批評の諸説を纏めた「チャート式」(つまり全面的に固有名詞に頼った本)が批評としてまかり通る。もちろんテリー・イーグルトンのこの本自体ある意味チャート式ではあるものの、文学の、あるいは批評理論の言説自体がイデオロギーの装置であるという立場をとる限り、「チャート式」すらも何らかの偏った価値にコミットしないということがない。この立場に立つ限り、あらゆるチャート式はチャート式ではあり得ない。そこに自覚的であるという意味で、やはりイーグルトンのこの本は他のチャート式本よりも優れていると思う。

さらにイーグルトンは、このポストモダンの商品にも良い所はあると述べている。


It has acted as a kind of dumping ground for those embarrassingly large topics nervously off-loaded by a narrowly analytical philosophy, an empiricist sociology and a positivist political science.


...


And none of the methods grouped under literary theory is peculiar to the study of literature; indeed most of them germinated in fields quite beyond it.



(以下拙訳)


困惑するほどデカい話が、狭隘な分析哲学や、経験論的社会学や、実証主義的な政治科学から荷降ろしされる一種の投棄場としてそれは機能した。


(中略)


そして、文学の理論としてまとめられる諸方法論は、文学研究に特化するということがない。実際には、それらのほとんどが文学から遥かにかけ離れた領域で芽吹いたのだ。


現今あらゆる知識が専門化し分業化しタコツボ化し没交渉となっているなどと言われて久しいわけだが、文芸批評の領域においてはこうしたフラグメント化した世界においては諦めなければならなかったデカい話、つまり天下国家を語るような、万物を支配する単一の原理を語るような、途方も無い大風呂敷を広げることができるわけだ。ここでは theory を「理論」と普通に訳したが、このセオリーなる語は特殊な意味を込められた言葉であって、本来新たに訳語を作ってもよかったような単語だと思う。この曖昧で恣意性に満ちたセオリーなる領域においては、本来結びつくはずのない現象学とクイア理論が結びついたりする、とイーグルトンは述べている。

で、最近よくマンガを読んでいるから考えるのだが、というかラノベを読んでたときにも思ったことだが、マンガ博士とかラノベ博士とかいって知識自慢をするオタクどもは、批評家の読み方に対して「ソレを語るにあたってアレを出さないとか……にわか乙!」という抑圧的な態度をとるわけだが、これほど単細胞的な発想もなかなかない。そもそも批評とはそういう実証的態度を超越して本来結びつくはずの無い概念同士をかけあわせて新しい視点を得ようとする試みなのであって、その試みに対して単純に知識で反論しても無意味である。批評に対しては必ず批評をもって反論せねばならないのだ。批評をもって反論するとはどういうことかというと、つまり意味だとか価値観だとかの領域に踏み込むことが必要だということだ。知識だけがとりえのオタクは、こういう領域については、「人それぞれの価値観がありますから……」などといって一見謙虚な態度をとるのだが、実際にはそれは自分の趣味を他人からとやかく批判されたくないから、自分のお城を壊されたくないからそうしているのである。しかし批評家のイデオロギー批判はそのお城をこそ真っ先に破壊しようとする。それゆえ知識だけが自慢のオタクはお城を固守せんがために益々知識でもって批評を排除しようとする。そして、家畜のように従順な美少女に囲まれてウハウハな夢物語に耽ることへの批判から目を背けようとする。だが、本来このような方法では自己の夢物語を批評から擁護することはできない。「美少女ハーレム夢物語に耽ることこそが、実は徹底して夢物語に対して禁欲的態度をとることになるのだ」という結論を導くための理論武装をせねばならないはずなのだ。事実本田透はそうした。だから本田透は偉い。無限に偉い。

あとは、芳林堂でM岡さんが面白いと言っていた、いしかわじゅんの『吉祥寺キャットウォーク』を買って読んだ。中学生時分には漫画夜話とかで見かける度に殺意を覚えたいしかわじゅんであるが、確かにこのマンガは面白い……。