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hkmaroのブログ

読書の感想など

七月二十四日 手塚治虫「メトロポリス」

七月二十四日。昼はてんやで夜は吉野家吉野家は最近うまい。

正直なところをいえば、私は手塚治虫の漫画は今読むと八割がた退屈でつまらないと思う。手塚治虫の漫画が全部面白いなどと言うのは、熱狂的な手塚原理主義者だと思う。特に古い漫画になるほどその度合いは増す。
だが今回読んだ「メトロポリス」は面白かった。話が面白かったというよりも、そこに胚胎しているテーマが面白かった。
最近このブログで何度か「アトムの命題」を引用しているが、大雑把に言えばアトムの命題とは、手塚以降の漫画がキャラに心を持たせたにもかかわらず、そのことと漫画固有の記号的キャラ造形が含む荒唐無稽さがもたらす矛盾であるとか、または作家がその荒唐無稽さを自覚的に乗り越えようとすることであった。これは言わば、漫画的荒唐無稽さの欠点である。大塚英志の『アトムの命題』はこれについて何度も「メトロポリス」をはじめとする初期の手塚漫画を参照している。
しかし、実際に私が「メトロポリス」を読んで深く印象付けられたのは、以下の場面である。

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エンミイという少女が学校で、スラム街生まれだとして、ある意味で「純粋」な子供たちから差別をされ、いじめられる。人造人間のミッチイは、エンミイをいじめた子供たちを懲らしめる。
その様子をみたケン一少年は、「うーん/あれが人造人間だと信じられるか/立派な人間だ/いや人間以上の人間だ!」と述べるのである。
ここにおいてはミッチイは、「アトムの命題」が言うような欠点どころか、人間以上の人間性を、言い換えれば人間性の過剰さを呈している。人間性という言葉の定義は難しいが、少なくとも無邪気に差別やいじめを行うような者こそが一般的な人間であって、人間性とはつまりそういうものをも意味してしまうはずだ。だが、ミッチイはそれを超え出てしまう。
もちろんこの人間性の過剰さとは、言い換えればそれを見る人間が「人間的だ」と思う規範が過剰である、ということを意味するのであって、つまりはそれを言う主体の思想に大きく依存する概念に過ぎないのだが、だがその一方で、いじめを行う人間のサガを完全に超克したミッチイが、ほとんどどのような人間から見ても「人間以上の人間」と見えてしまうだろうという推測も決して無理ではない。
この「アトムの命題」の言わば裏側に存在する人造人間の長所を、私はここでは「ミッチイの命題」とでも呼びたい。「アトムの命題」と「ミッチイの命題」をともに可能にさせるマンガの荒唐無稽さを、「漫画的荒唐無稽」とでも呼んでおきたい。荒唐無稽の語は、講談社版文庫全集の同じ巻に収録されている手塚治虫自身の「ロストワールド」の解説からとった。そこにはこうある。

そして、とうとうオール丸ペンに墨という本格的な原稿を仕上げたのが、中学二年生のときで、「幽霊男」という三百ページのSF風冒険物語です。サイボーグ、ロボット、マッド=サイエンティスト、そして国際陰謀団のいりみだれるこの荒唐無稽きわまるメロドラマは、一部を「メトロポリス」「火星博士」「魔法屋敷」「来るべき世界」などに流用し、ヒゲオヤジは全編フル活動して、”伴俊作”という本名まで授かりました。

つまり、手塚治虫初期のSF作品の源流となったような初の本格的なまとまった作品である「幽霊男」にすでに、この漫画的な荒唐無稽さが含まれていたのだ。メトロポリスにおける主たる漫画的荒唐無稽の要素が、人造人間ミッチイや、ロボット達の存在であることは疑いない。彼らは人間に虐げられ、裏切られたことに対する怒りから、人間たちに反抗する。彼らの漫画的荒唐無稽を土台にした身体が、アトムの命題が予言するとおりに砕け散る宿命にあるとしても、ミッチイにおいては「人間的な心と荒唐無稽で非人間的な体の齟齬」というよりも、むしろ「過剰に人間的な心と半ば人間的な体の齟齬」のほうが目立つ。このような要素は、例えば『デビルマン』にも『寄生獣』にも見られるものだし、敢えて勇み足を踏み出すとするなら、人間への反抗を抜きにすれば清純で無垢な過剰な人間性という意味では『ドラゴンボール』の悟空さえこの系譜に加えることができる。彼らは一見人間と変わらないが、人間よりも人間らしい美徳を持つ。悲劇的なリアリズムを持つマンガが「アトムの命題」を乗り越えようとした一方で、明らかに「ミッチイの命題」もある種のマンガの主人公類型を作家の無意識裡に縛っている。

デビルマン』に言及したが、奇しくもミッチイは天使像をモデルとして作られている。彼らは半分人間、半分神である。おそらく「ミッチイの命題」を採用したマンガは、神罰的な暴力を体現するスーパーヒーローを主人公にいただくマンガであり、具体的には『ドラゴンボール』に代表される少年漫画、バトルマンガの類が典型的にそうであろう。しかし、『デビルマン』および『寄生獣』のように両方の命題に応えうるマンガこそが漫画的荒唐無稽の「ご都合主義」を根本から問う古典へと昇華されるのだと思う。