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hkmaroのブログ

読書の感想など

七月二十一日

七月二十一日。仕事の後、池袋のキンコーズにいって同人誌の印刷、製本をやる。その後、打ち上げで痛飲。M岡さん、M田、Oと九州料理の居酒屋で十二時近くまで飲んだが、M田はそこで帰り、残りの三人は庄やで飲む。二軒目に入ったはいいが、糞みたいにどうでもいい話しかせず。その後カラオケ。カラオケに行ったはいいが、糞みたいな歌しか歌わず。喉が焼けて痛い。

早稲田の漫画研究会のOBたちなので漫画の話もした。M岡さんとOはやっぱりマンガの教養がある。私は漫研の部員だったがマンガをろくに読まなかったので教養がない。つげ義春を読んだことがないと言ったらバカにされた。とはいえ現代つげ義春なんか読むのは明らかに意識の高いマンガオタクだけで、先日の日記にも書いたが、こういう古典・教養みたいなものが「論壇」の保守的イデオロギーを維持強化するという害悪を蔓延させる。もちろん一定のいい面もあるのも確かだが、例えばウィキペディアのつげ義春の項をみると、こんな話が書いてあって、こういうのを見るだに読む気がなくなる。

おりしも、時代は全共闘紛争のちょうど前夜。劇画ブームも手伝い、大学生や社会人も漫画を読むようになった時代であり、そうした世相を反映しアングラ芸術のタッチも取り入れた『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。この作品に関しては多くの精神分析的解釈が試みられたが、つげはそのいずれをも「全然当たっていない」と一笑に付している。

これ、昨日の日記に引用したエリオットの批評への反応とまったく同じ。言葉による解釈は彼らにとって無意味である。「体で感じろ!」というわけ。こういう態度がまったく内容空疎な空気マンガとかを蔓延させる原因であるのは明白だし、しかもこういうのは伝統とか歴史とかを捏造する。マンガの伝統、マンガの歴史、マンガの芸術性、こうしたものの恩恵に与りたいと思う者たちがこれをありがたがるわけだ。しかし、サブカルチャーとしてのマンガは、その通俗的で短絡的な即物性に縛られながらも、そうした伝統だの歴史だの芸術だのというイデオロギーを全く無化したところに価値があったのだと思う。誰か有名な漫画家が、マンガってのは読み捨てられる娯楽であるのが本質だ、みたいなことを言ってたが、読み捨てられる本だからこそ反体制的でもありうる。今度から「体で感じる空気マンガ」を信奉しているような人間の精神性を評して、マンガ・イデオロギーと呼ぼう。このマンガ・イデオロギーのことを、私は昔から大嫌いである。

とはいえ私も古典は重要だと思う。古典を全然読まない奴はバカだ。古典にも二種類あると最近思っていて、一個はコンベンショナルな古典、もう一個は世界文学的な古典だ。前者は世間一般が考えるような古典であり、後者は国内や同時代でよりも、外国や後の時代に大きく評価されたような古典である。もちろん両者を画然と区別することはできず、コンベンショナルな古典は、新しい批評家によってむしろ世界文学的な古典だとして扱われるようになったり、あるいはその逆もあったりするだろうが、読むべきなのはコンベンショナルな古典ではなく、世界文学的な古典である。世界文学的な古典は、つげ義春よりも鳥山明に近い。アフタヌーンよりもジャンプやマガジンのほうが世界文学的である。小谷野敦がどこかで久米正雄の言葉として、ドストエフスキーバルザックも高級な通俗小説だ、というようなことを言っていたが、全くいい言葉だと思う。「高級な通俗小説」こそが世界文学だ。そういう意味で本田透は真の意味で世界文学的な視点(分析自体の正しさは別として)を持っていると、半ば本気で私は思っているのだが、彼は最近そういう本を書いていない。