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読書の感想など

七月二十日 『25時のバカンス 市川春子作品集Ⅱ』市川春子

七月二十日。昼:生食の(いちいち「生協食堂」と打つのめんどくさいから今度から「生食」と書く)釜玉うどん。大盛りを頼んだが、おばちゃんが間違えて特盛りにしちゃった、などという。夜:西友の298円弁当。唐揚げ弁当がなぜか大盛りキャンペーンをしている。多過ぎて胸焼けする。

25時のバカンス 市川春子作品集(2) (アフタヌーンKC)

25時のバカンス 市川春子作品集(2) (アフタヌーンKC)

The advantage of language closely wedded to experience, for Eliot, was that it enabled the poet to bypass the deadly abstractions of rationalist thought and seize his readers by the 'cerebral cortex, the nervous system, and the digestive tracts'. Poetry was not to engage the reader's mind: it did not really matter what a poem actually meant, and Eliot professed himself to be quite unperturbed by apparently outlandish interpretations of his own work. Meaning was no more than a sop thrown to the reader to keep him distracted, while the poem went stealthily to work on him in more physical and unconscious ways.(Terry Eagleton, Literary Theory: An Introduction, Univ of Minnesota Pr; 3 Anv, 2008, pp. 35)


(以下例によって拙劣な拙訳)


経験と密接に結合している言語の利点とは、エリオットにおいては、合理主義的思考の生気のない抽象を詩人が避けられるようにすることであり、読者を「大脳皮質、神経組織、消化管」によってつかむことができるようにすることであった。詩人は読者の精神と結びつくのではない。詩人が実際に何を意図したのかは本当の問題ではなく、エリオットは、自作に明らかに的外れな解釈をされようとも自分は全く平気であると明言した。意味とは読者を混乱の状態に留めるための撒き餌に過ぎないが、その一方で詩は、忍びやかに、より身体的かつ無意識的に読者に作用するのだ。


市川春子のマンガは、先日の『Latin』のレビューでも書いた「アトムの命題」に忠実に向かい合っているように見える。「アトムの命題」とは何かを再度書き写すとするならば、

アトムは「人間の生まれ変わり」である。しかしロボットという無機質の身体、人工の身体であるが故に成長できないのである。人間と同じ魂を持ちながら、アトムは成長できない。それがアトムの背負う運命なのだ。

このようなアトムのキャラクターのあり方は人工的で非リアリズム的な「記号」をまといながら、その内面には「心」があるという手塚まんがの方法に対する極めて批評的な自己言及である。(中略)記号=人工の身体であるが故に成長できないというアトムのキャラクター造形は、手塚が自覚した「記号」によるまんがの表現方法の限界への自己言及であり、同時に戦後まんが史を通底する主題の成立を意味する。

それが、ぼくが「アトムの命題」と呼ぶものである。

アトムの命題」は「成熟の不可能性を与えられたキャラクターは、しかし、いかにして成長し得るのか」という問いとしてひとまず集約できる。(大塚英志アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』角川文庫、221、222ページ)

市川春子のマンガでは、ほとんど全ての短編において、人間的な情念と、人外としての身体的条件が齟齬をきたす。『25時のバカンス』でそれを確認するとすれば、表題作の「25時のバカンス」では主人公の乙女と甲太郎がそうであり、二人とも成人していながら(甲太郎が20歳になる時点から物語は始まる)幼い時の記憶と、その延長線上で関係性を持つだけでなく、乙女は30歳を過ぎているにも関わらず不可解な海洋生物から「姫」と呼ばれる。そして乙女自身の、とても30過ぎには見えない視覚的な描かれ方も注目に値するだろう。深海で泳ぐ彼女の姿は、ちょっと眠たい目をした少女にしか見えない。「パンドラにて」でも、人間離れした姿を持つクアドラは、言葉を喋ることができず、そのことは結局彼女自身の身体に重大な帰結を招く原因と関係してくる。「月の葬式」では、月世界人と地球人との身体の性質の違いが大きなポイントである。どの物語も、人ならざる者が人ならざる体のままで人と濃密な関係性を築こうとしたときに、何らかの身体の崩壊を迎えずにはいない、というプロットになっている。人と濃密な関係性を築く、とは、これは当事者同士が「人間」でなければ、つまり十分な人間性を持たなければできないことであり、各短編の<人外>たちは必然的に「人間」になろうとするのだが、その過程で必ずその<人外>的な身体が犠牲に捧げられるのだ。「人間」になるということを、ここで「成熟」なる言葉を用いずに言い換えるならば、心や内面を持つ、ということと定義してもよい。人間らしい心や内面を持つからこそ、<人外>たちは自己犠牲的に愛する人(それは必ずしも恋愛感情とは限らない。例えば『虫と歌』の「星の恋人」では、つつじの自己犠牲は恋愛感情と画然と区別されている)に自らの身体を捧げることができる。

これらの<人外>描写はしかし、当然のことながら単に「アトムの命題」の為に挿入されているわけではない。というよりもむしろ何か別の作劇上の要請から上記の展開を取り入れたら、偶然に、あるいは必然的に、「アトムの命題」に応え得る作品になっていたと解するのが正当であろう。最初から批評家の要望に応えようなどと色気を出して作られた物語が往々にして図式的で退屈なのは周知のことと思う。そうした合理的関心からは離れた別の、読者のパトス的欲求を満たす何かが作品に存しているからこそ、読者はその物語に引きつけられるし、批評家をしてそれを批評せしめるのだ。『25時のバカンス』を読んで私が感じたその必ずしも合理的でない魅力の源泉は、一つには極度のプラトニズム、もう一つには24年組的な雰囲気を彷彿とさせる高踏主義がある。説明の都合上、後者の跡から作品中に辿って行くことにしたいが、この高踏主義はロゴスを重視する態度である。例えば「25時」では、「光に頼らない彼らは地球から噴き出す硫化水素という毒を吸収し体内に共生しているバクテリアに分解させ」「そのエネルギーで生きる/食べることを そして光を放棄した一群だ」「チューブワームやシロウリガイが有名だろう」「最近捕獲した新種の貝を高水圧から大気圧環境に適応させる実験をしていた」「彼らに地上のエサを与え続けると 退化していた消化器官が復活し」「その中に眠っていた新種のバクテリアが発見された」「貝が食べた物の機能情報を一部保存し 再構築し/貝に変化を与えることのできる菌だ」「海底環境が安定しなかった時代/効率的に環境に即する為に使われていたのかもしれない」という科学的な説明のセリフが一ページのうちに詰め込まれているし、そもそもこれらのセリフを喋る乙女は天才科学者という設定で、その上他人の提案等に点数を付ける癖があるという、情緒的なものとは正反対のイメージを持つキャラクターだ。また「パンドラ」についても、主人公のナナやクアドラは名門の学校に通う学生であるうえ、彼女らはその中でも飛び抜けて頭が良い存在で、特にナナは「先日発見された不規則銀河プリズマ中の恒星タバと12の衛星間の体積が図Aのように最大になる時の空間中のラシュトテクスチャー含有率」を求めよという「いじわる」な問題を当てられても、「図A」なるものを暗記しているからという理由で見ないままで、数式を黒板からはみ出して床にまで書いたのち「0.0066%」と正答するような、荒唐無稽とも言って良さそうな天才である。「月の葬式」でも主人公の少年はクラスメイトから「天才先生」と呼ばれるような文字通りの天才であり、この短編でもラストの重要な場面で科学的な用語を多く含んだ長いセリフが立て続けに挿入される。こうした特徴は市川春子の作品に一般的にみられるものだ。

しかし、このロゴス的態度は、定義上、読者のパトス的欲望を満たす不可解な魅力とは相反するのでなければおかしい。実際にそうはなっていないのは、そのロゴス的な表面の下側をくぐるようにして、内面のプラトニズムが物語の最後に顔を出すからだ。これについてはいちいち説明する迄もないだろうし、ネタバレになるので証拠を挙げていくことをしないが、このプラトニズムを補強するのは、各短編が抱える通常のヘテロセクシャルな性的関係ではなく、近親相姦や同性愛やそれらの両方を兼ねる愛の形だ。あるいは、<人外>と人間との間の愛情という要素だ。これらは多くの場合複合的に用いられている。通俗的な言い方をすれば、「恋愛は障害が多いほど燃え上がる」のであり、これらの性や愛の形は、「障害」として機能する。そもそもプラトンの少年愛が、肉体の桎梏を超えた精神的な愛がそこで可能になるから、というストイックな理由で賛美されていたのを思い出せば、肉体的な「障害」が多いことや、性愛が「変態」的であることは、プラトニックな愛においては有利に働く。それゆえ、肉体を失ってでも継続する愛情というものが作中に描かれ、そのことが結果的に「アトムの命題」に応えることになっているのであろう。このプラトニズムはパトス的なものである。これらのパトスはロゴスの傘の下で温存され、ストーリーの結末に、一挙に読者の解釈を塗り替えるほどに解放される。

このような市川春子作品に共通している特徴に対して大きな平行性を持っていると思われるのが、冒頭に引用したT.S.エリオットの思想だ。各短編の「合理主義的思考」を持つロゴス的天才達は、その下に秘めたるパトス的な恋慕の感情でもって「忍びやかに、より身体的かつ無意識的に読者に作用する」のだ。だが、このプラトニズムは、それが顕在的なカタルシスの源泉となっている以上は、「身体的」とは言えても「忍びやか」で「無意識的」とまでは言えないのではないか。もしそのような、潜在的に読者に作用する何かがこのマンガにあるとすれば、それはプラトニズムではないのではないか。

けだし、それはこの作品の空気であり、詩情である。エリオットが言うところのものと同じ意味で、市川春子は詩人である。もちろん、マンガ家である作家は詩のみを用いるわけではない。しかし、手塚的な意味での「記号」としての絵と言葉の複合形式を操るマンガ家が、詩人としても活躍できる、という可能性はおおいにあると思う。事実この本の各短編のラストの一コマは、どれも「詩的」である。そこで読者は、「大脳皮質、神経組織、消化管」に響く何かを感じ取る。もちろん、私が引用したテリー・イーグルトンの本にも書いてある通り、このような「身体的」に作用する詩が、個人を抑圧し伝統を重んずる思想と近い所にあるということは確かだ。ある詩が「身体的」に受容されるためには、読者がやはり詩と同じ伝統を共有していなければならない。詩は、ともすればそのような伝統を、そのイデオロギーを維持強化するための道具に成り下がる。あるいは詩を解する者を囲い込み、解さない者を「野蛮人」と蔑むというそれ自体が野蛮な態度を正当化してしまいかねない。だが、このような一種の貴族主義は、エリオットの時代には産業化していく資本主義社会へのアンチテーゼとして隆盛したのと同じように、現代日本の即物的なマンガ産業界へのアンチテーゼともなる可能性を持っていることを認めることは私とてやぶさかではない。何よりこの詩は、私の五臓六腑にも鳴り響いた。革命力70。