hkmaroのブログ

読書の感想など

七月十九日 『あしたの今日子さん』いわさきまさかず

七月十九日。非番。川越に遊びに行く。暑い。開運亭というお店に行った。ぶっかけうどん食べた。とてもうまかった。茶碗蒸しが非常に美味い。うどんも意外にもピリ辛で元気が出そうな味。女将さんが親切。

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その後、川越をぶらぶらする。菓子屋横丁に行ってみるが何も買わず。いもソフト食べて、紀伊国屋で『あしたの今日子さん』というマンガを買う。夜はコンビ二の弁当食べた。

あしたの今日子さん 1 (電撃コミックス)

あしたの今日子さん 1 (電撃コミックス)

最近思うのだが、何か作品を読んでそれを評価したり批評したりするという行為は、つまり各々の作品を差異化するということだ。昨日読んだ本と今日読んだ本は違う本である、と言うのと同じだ。そしてどこがどう違うのかを縷々述べていくわけだ。それだから、ある本のことを、先行する別の本と同じことしか書いてない、と評するのは明白にけなす言葉として機能する。他にもどういう尺度で評価が決められやすいのかという基準は存在していようが、特に差異化することは非常に本質的なことだと思う。数を沢山読んだり、歴史観を作るよりも、何にも先立ってこの差異化の能力が評者の能力として必要であろう。対象の独自性を見て取ることの出来ない人間は、その作品の無制約性を認識することができない。その対象の置かれうる別の文脈を想像してみることができない。

例えばこの『あしたの今日子さん』というマンガは電撃コミックスの「その手の」萌え日常系ギャグマンガであり亜萌え4コマであるより他に昨今のオタク界の一種のブームである魔王・勇者モノであり、またそれとは別に残念な日常モノでもある。これらの文脈はそれぞれにこの作品を置いてみて考察するに値するものなのではあるが、しかしそれらの読み方がオタク界内部の差異化ゲームに奉仕してしまうという結果を招来するに終わることが往々にしてあるのも事実である。差異化ゲーム、とは言い条、実質的にそれらはどの読み方が最も本質的なのか、というポジショニングの問題へと収斂してしまい、つまりイデオロギーをリインフォースするに過ぎなくなってしまうので、むしろ差異化とは逆の方向へ、同質化の方向へとひた走るのである。

もちろん、あらゆる読み方はイデオロギッシュであるし、そもそも作品自体がイデオロギーの装置として機能しないということがない。オタクにとってその顕在的なイデオロギー批判の領域が、魔王モノなのかどうなのか、残念な日常モノなのかどうなのか、女子高生メインのホモソーシャルな萌えギャグマンガなのかどうなのか、という問題系であるに過ぎない。しかしながら、より本質的に、という言い方が悪ければ、より一般的なイデオロギー批判をするのであれば、そこに描かれている美少女表象がどのようなイデオロギーの所産であるのか、という考察であるとか、キャラクター達の振る舞いがどういう階級意識を反映しているのか、ということを批評していかねばならないのである。

そうした意味で、つまり最も素朴に作品が前提としている下部構造に注目してみて興味深いのは、この『あしたの今日子さん』というマンガが明示的に「日本の千葉県柏市」を舞台としているところであろう。なぜ主人公である魔王が柏に降り立つのか、という理由は柏にいるであろう勇者の脅威をまずもって排除せねばならないからであるにせよ、「せめて六本木のオートロックマンションがいい――――!」などと駄々をこねる魔王に対して説く従者マーリンの言葉は「築30年の木造アパート2DK」「家賃一万円の格安物件/今日から我々の城です」「前も言いましたが/今魔界は500年に一度の大不況!」「上に立つ者が率先して無駄を削減せずして国民へのしめしがつきますか!」という言葉であり、もしもこうした「財政難」が柏の格安アパートに住まざるを得ない理由なのだとすると、<リッチな都心での生活/質素な柏での生活>という二元論的構造があると同時に<リッチな都心>においてはもはや物語をつむぎ出せない作者の意識、あるいはそうした物語には読者が共感できないであろうという作者の予想が働いていると見ることも不可能ではない。

だが、このような私の予測は、もう一人の主人公、勇者である市川今日子が、魔王の格安アパートの向かいの大豪邸に住んでいる、という設定によって脱構築されてしまう。<質素な柏での生活>の目の前に、<リッチな柏での生活>が現出してしまうのだ。そもそも魔王が世界征服の最大の脅威と考えるのは、言葉の定義上当然ながら勇者なのであり、勇者のいる柏から外へ出る必然性がこの物語には存在せず、それゆえ東京都心という場所はこの千葉県柏市からみて文化的優越性や経済的優越性を直ちには意味しない。それらは無いも同然だからだ。彼女らは自足している。彼女らは柏の駅前の立体構造を舞台に暴れたり、ガストやマックに溜まったり、マルイで服を買ったり、それで十分なのである。

私がここで思い出すのは、大塚英志とか宇野常寛がやたらと『木更津キャッツアイ』を評価していたことである。同作品においては「木更津を一歩も出たことがない男」が主人公として登場するのが特徴であり、木更津ローカルで完結する話が当時画期的だったらしいのだが、このことが『あしたの今日子さん』とどのようにリンクするかは『木更津キャッツアイ』を観たことがない私にはわからないが一応これを読んでいる人の参考のために書いておく次第である。

では、ガスト・マック・マルイで繰り広げられる日常に、彼女らが自足できてしまうのは何故なのか。ヒントは、彼女らが常に背中に背負っているいやにオタク趣味的な意匠をこらされた諸種の武器にあるだろう。魔王やマーリンについても例外ではなく、明らかに日常に溶け込まない異様な武装を彼らはしていて、そうでありながらそのこと自体は日常の問題とはならずに済んでいる。このファンタジックな武装は、そこに超越的な要素を集約させるための道具であろう。本来、象徴を産出する場所である東京都心のその神秘的なパワーが人々の意識を規定する強力なイデオロギーの装置として機能せざるを得ないのに対して、この神秘的なパワーから身を守るために彼女たちが背負ったのが、各々の武器なのである。これらの武器に神秘性を集約させることで、それ以上の神秘性を彼女らは必要としない。結果、本来東京都心との比較において<なんもない柏>に暮らしていても内在的に充足することが可能なのだ。

もちろん、柏には本当になにもないのか? という問題もひとつある。柏在住の先輩に聞いたところによると、柏が衛星都市であるにもかかわらず柏駅前が土日にはあれほどあふれんばかりの人で賑わう理由は、ひとつにはさらに遠くの茨城から買い物するために出てくる人が沢山いるからなのだそうだ。これを考慮すれば、休日に柏に遊びに出てくるような茨城県民にとっては、柏とは東京で産出された象徴を中継する機能をもった、やはり神秘的な価値をある程度持つ街だということになりうる。そしてその可能性は、私自身の実際に柏の大地に降り立った経験を思い出してみたら、そうそう低いものとも思われないのだ。

とはいえ、このマンガがそうした神秘的パワーの中継地点としての柏を舞台にしているかというと、これは明らかに否なのである。繰り返しになるが、彼女らは自ら背中に背負うゴツイ武器によって、東京から天下ってくる神秘性を中和することができる。マルイのバッファローボブスで服を買おうとした魔王は、結局それを買わず(買えず)にユニクロで下着類を買うのである。こうした自足性を、私は積極的に肯定したい。中央から下ってくる文化というものを信頼していないからだ。もちろん、全国流通する電撃コミックスというレーベル自体が極度に神秘性の天下り構造に依存しているとしても、それもインターネットの力により早晩代替経路との関係で必然的な形式とはならなくなっていくだろう。革命力72。