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hkmaroのブログ

読書の感想など

七月十八日 『Latin 高畠エナガ短編集1』高畠エナガ

七月十八日。昼:カレー。夜:コンビニのから揚げ弁当。

Latin 高畠エナガ短編集 1 (高畠エナガ短編集)

Latin 高畠エナガ短編集 1 (高畠エナガ短編集)

手塚にとって「絵が動く」ことよりも「生きているように見える」ことにこそアニメーションに執着する動機がある。(中略)人工的なキャラクターに生命を吹き込みたいという衝動は、記号的表現のキャラクターに身体や心を与える手塚まんがの方法、アニメーションという表現への執着、そして人工物に「生命」を与えようとする「科学者」の欲望という手塚まんがの根幹を貫くモチーフとして多方面から手塚治虫の表現を規定していると理解できる。(『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』大塚英志著、角川文庫、193、194ページ)

この部分を読んで私は自分がロボ娘というかアンドロイドとかAIとかの美少女に引かれるのにこういう理由もありうるのかも知れないと思って変に納得した。もちろん私は手塚治虫のようにプロダクティブではないから、私自身にそういう生命を吹き込むという意味でのクリエーションの欲望があるわけではないが、しかしモノが生命を宿したかのように見える場面や、そういう話には非常に関心を寄せている。

『Latin』の表題作「Latin」はまさに生命を宿したロボットが主人公の一人だし、「雪原のネストーレ」も、読み方によってはロボットに生命が宿る過程を描いていると言えなくもないし、「猫又荘の食卓」についても、人工的な生命こそ出てこないものの、猫に人間的な生命を読み込むという意味では、<生命を吹き込む>行為の一種と言えるだろう。ただ、「Reversi」だけがその形式に当てはまらない。もちろん、<人外>という萌え属性を、四つの短編は共通項として持っているものの、それはあまり本質的ではない。より詳しく言えば、四つの短編が<人外>という属性にいったいどういう意味を付与しているのかが問題なのである。この四つの短編においては、<人外>であることはエイリアンであることを意味しない。他者であることを意味しない。読んでみれば明らかなとおり、辺境、周縁、境界線上にいるのが『Latin』における<人外>たちなのである。「Latin」においてラテンは、家庭から棄てられた奉仕型のアンドロイドとして登場するし、「雪原のネストーレ」における妖精のアニタは故郷を焼かれた孤独な漂流者として登場するし、「猫又荘の食卓」の猫たちも「ギムキョーイク」も受けられぬがゆえにもっぱらキャバクラやゲイバーやメイド喫茶などの性的な産業で生計を立てている、いわばルンペン・プロレタリアートであるし、「Reversi」における悪魔のマリカは天使に対する屈折した劣等感と自己嫌悪に苛まれている。単なる「ロボットモノ」「人外モノ」というくくりで見る前に、本書における<人外>たちがいったいどういう存在なのかということは、最後の一遍「Reversi」をヒントにするならば<悪魔>的な者たちとして類推的に解釈することができる。ラテンは人間の嫉妬を買うがゆえに廃棄される者として、アニタは謂れなく排斥される者として、猫たちは細々と人間社会に紛れて生きる者として。そうしたものたちが共通して持つ<排除されるもの><否定されるもの>としてのイメージを、端的に象徴的にまとっているのが、嫌われるもののズバリ代表格としての<悪魔>マリカだと言えよう。

それゆえその<悪魔>が自己の心の傷を治癒させる過程は、他の三編を読むにあたっても大いに参考になることと思われる。詳しくはネタバレになるので書かないが、マリカは天使であるユリに自分の心の傷を開示することで、またユリがそのマリカを受け入れることで、マリカは治癒する。<悪魔>は<悪魔>であることとその苦しみを吐露することによって何らかの救いを得るという仕組みになっている。この仕組みは、例えば「Latin」においてもまったく同じように踏襲されているし、「ネストーレ」のアニタも同様だ。一見わかりにくいのは「猫又荘」だが、なんか実家でいろいろあったっぽい谷町青年が、他人への素直な好奇心を隠さず接してくる猫たちに触れていくうちに癒され、自分自身素直になって治癒していく、という仕組みを持つことが読み取れる。つまり本書の全短編は、屈折した、ある被いをかけられていた心が、他人との触れ合いによってその被いを取り払い、心の奥底にある正直な気持ちを自分で認め、自覚し、成長していく、という構造を持っている。<悪魔>であることに甘んじ、そうした状況を打開する意思を失っていた者たちが、意思を取り戻し外界へ働きかけはじめる、というモチーフである。言い換えれば、主体性を回復してゆく物語として、四つの短編は読むことが可能だ。

しかし、では、<人外>の別の側面、特に、冒頭にも引いた<生命を吹き込む>という側面は、これにどう関係してくるのであろうか。現代的なマンガの<内面を持つキャラクター達によるドラマ>を可能にした手塚治虫のまんがが<生命を吹き込む>というモチーフを用いることによってそれを可能にしていたとするならば、それとの位相差でこの作品を読むことにより、いくらかは重要なことが見えてくるであろう。特に、ここでは「Latin」を見てみることにしたいが、同短編においてはラテンは、<あらかじめ生命を吹き込まれた>者として登場する。そして、それは一度は棄てられ、渡辺信也青年に拾われるまでは、ジャンクとして流浪していたのである。棄てられていたラテンは、渡辺青年と心を通い合わせるうちに、内面の健康を回復してゆく。そして、その人?生における重要な決断をすら主体的に下せるほどに、主体性を回復するのだ。いや、回復というよりも、ラテンにとってはこの主体性はむしろ渡辺青年との触れ合いによって初めて得たものであるかもしれない。ともかく、ここにおいては、<モノ→人工生命>という<生命を吹き込む>プロセスの手塚的段階から、<人工生命→ジャンク→人間>という二つの手続きを踏んだ<生命を吹き込む>プロセスのポスト手塚的段階が見出せる。とはいえ、このポスト手塚的人工生命の描写が手塚的段階に比べて進んでいるとか、あるいは逆に劣っているだとかいう、価値判断は一切留保することとする。ただ、時代的な変化が必然的にこの変化にも作用しているという視点でこの事態を観察しても、その興味深さや重要さが手付きの荒さを幾分かは免除する理由として機能し得ると私には思われる。おそらくはここで冒頭に引いた『アトムの命題』における「アトムの命題」を本作に当てはめてみることが、一体本作をどの程度評価すべきなのかというわれわれの喫緊の問題にある手引きをまたもや与えてくれるものと考えられる。「アトムの命題」とは以下のようなものである。

アトムは「人間の生まれ変わり」である。しかしロボットという無機質の身体、人工の身体であるが故に成長できないのである。人間と同じ魂を持ちながら、アトムは成長できない。それがアトムの背負う運命なのだ。
このようなアトムのキャラクターのあり方は人工的で非リアリズム的な「記号」をまといながら、その内面には「心」があるという手塚まんがの方法に対する極めて批評的な自己言及である。(中略)記号=人工の身体であるが故に成長できないというアトムのキャラクター造形は、手塚が自覚した「記号」によるまんがの表現方法の限界への自己言及であり、同時に戦後まんが史を通底する主題の成立を意味する。
それが、ぼくが「アトムの命題」と呼ぶものである。
アトムの命題」は「成熟の不可能性を与えられたキャラクターは、しかし、いかにして成長し得るのか」という問いとしてひとまず集約できる。(前掲書、221、222ページ)

この「アトムの命題」は戦後まんが史の中で様々な形で変奏される。序章で触れたように人間らしく生きようとしながら小さな身体故に自分の身体を蝕む魔球を投げ自滅していく星飛雄馬や、自分と戦うために力石徹は減量して降りてそして死んでいったバンタム級に成長期を迎えながら留まろうとし破滅していく矢吹丈、これらの梶原一騎の産み出したキャラクターはいずれも「アトムの命題」に殉じている。殆ど全てのキャラクターを成長させることを禁じ、悲劇的結末を迎えさせた梶原は「アトムの命題」に最も忠実に格闘した作家だとさえいえる。成長を拒み永遠の少年で生きる吸血鬼のエドガーとアランたちと生身の人間たちの上に不条理に流れていく時間を対比した萩尾望都の『ポーの一族』、手をつなぐのではない本当の結婚を恋人と約束しながら大人になれず死んでいった少女を描いた大島弓子の『いちご物語』、改造されてしまった身体と人間としての「心」のギャップに悩む石森章太郎の『サイボーグ009』や『仮面ライダー』の主人公たち。(前掲書、226、227)


つまり、上記前者の引用からは、アトムの命題とはマンガという表現形式に則る限り決して批評的に無視することの出来ないポイントとして常に付きまとうマンガ固有の矛盾であり、またそれをいかに乗り越えるかという難問であり、そして後者の引用からは、この矛盾および難問に自覚的であるかぎり、そう簡単に「キャラが色々経験して内面的に成長してめでたしめでたし」という展開は原理的に迎えさせることはできないし、できたとしてもそれはマンガ固有の問題を都合よく捨象した上で達成されるものに過ぎない、ということがわかるわけだ。

さて、では『Latin』はこの矛盾、難問、不可能性の問題にどのように、どの程度、向かい合っているだろうか。歴史的な名作に続く、新たな回答法を編み出していると言えるだろうか。この判断は各読者が下すしかないし、そもそも「アトムの命題」なるものの重要性を認めない、という声すらあるかもしれないが、私としてはこの命題はジャンク文化としてオタク文化にとって極めて本質的な命題であると考えるが故に非常に重要だと考えるし、その上で判断するならば、今回の作品がこの命題に多少とも真摯に向き合ったとは感じ取ることができなかった。何故ならば、主人公たちはあまりに屈託なく「成長」を遂げてしまうからである。そこに一種の胡散臭さがあるのは事実であり、もちろんいかに胡散臭かろうとそこを割り切って読むのがマンガ読みの「作法」ですらあるかも知れぬが、上記の私の立場から言えば、いくら主体性の回復という価値あるテーマが描かれていようとも、それが必然的に挫折させられねばならないはずのマンガの宿命がスキップされている点において、私の評価は限定的にならざるを得ない。革命力39