読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

七月十六日 外国人オタクの日本人コンプレックスと世界同時革命

海外のブログから面白い記事を見つけたので、当ブログのわずかな選ばれた読者諸兄にご紹介したい。下記に翻訳して転載する。転載元に許可をとってないので、何か言われたら即消す予定。翻訳は私のエキサイト翻訳に毛が生えた程度の劣悪なものなので、原文にあたることを強くお勧めする。英文読解能力の無さを糊塗するために、かなり意訳した部分もある。

(引用元:How Much Does “Japanese-ness” Matter to Anime and Manga Fans? OGIUE MANIAX)

「日本人性」は、アニメ・マンガファンにとってどのくらい重要なのか?

非日本人アニメファンのステレオタイプなイメージは、日本大好きな人、というものだ。彼は幾つもの名前を持っていて、殆どの場合他人から与えられたものであるが、それだけでなく自分で名乗ることもある。オタク、wapanese、親日家、weeaboo。こうしたアニメファンは、少なくともアニメがすごい理由の一つはそれが日本からやってくるからであり、そのことはある一定のスペシャルさか、少なくとも独特さをアニメに付与するのだと信じている。


しかし僕はこう問わざるを得ない。日本人性がそれほど沢山のアニメ・マンガファンにとって根本的な要素であるというのは、一体どこまでが本当なのか?


それが全然重要じゃないだとか、要するにファン達はもっと物事を想像力ある客観的でより中立的な立場から判断すべきだなどと言いっているわけじゃなくて、むしろ日本への欲望が存在するのかしてないのかというようなところはどこなのかと僕は問うている。


吹き替え声優のファンについて考えてみよう。サインをもらうために吹き替え声優が出てる大会に毎回現れるような人たちだとか、日本のオリジナル声優よりも吹き替え声優のほうをとても好きな人たちのことである。なんで吹き替え声優が彼らのファンに親しみやすい声であるのかということについて、テレビ等の比較的接しやすいメディアを介してその声に触れていたからだ、というようなことは言える。しかし僕が考えているのは、要するに、たとえ日本人性が吹き替え声優ファンの好きなアニメの他の部分、例えばキャラデザや物語の設定とかの部分に存在していたとしても、「喋りの日本人性」自体はそれほど大きな要素ではないということだ。理解可能性を持つことや、英語(か、どの言語でも)のニュアンスの理解さえもが、日本語を喋るキャラが出てくることよりも重要なのだ。


以前ニューヨークのチェリーブロッサムフェスティバルに参加したことがあるが、そこで黒人の女の子がキモノを着ているのを見た。彼女がアニメファンなのかどうなのかは判然としないが、ナルトのキャラのコスプレをした友人達に囲まれていた。彼女のキモノの着方で興味深かったのは、明らかに着方が間違っているのに、全然気にしてなかったことだ。もし彼女がそれを知っていたとしても、全然重要ではなかったのではないか、という印象を僕は受けた。キモノはクールだし、キモノ自体の日本人性は重要だと言うことすら僕は辞さないが、キモノに合わせるのでなく、キモノを彼女自身に合わせるという態度を貫くこともやはり彼女にとって重要なのだ。


素朴な仮説は、ファンはアニメやマンガがスペシャルで独特であるように感じられる為に十分なだけの日本人性をのみ好むのであり、完全に異国的であったり親しむ事もできなくなるほどには好まない、というものだろう。しかしながら、僕はこれはいくつかの理由から欠陥のある記述だと考える。第一に、日本人性の表現は必ずしもエキゾティズムやオリエンタリズム(多くの場合に妥当しうるのではあるが)と同じではないし、第二に、そこには人々がなりたいものとなりたくないものとの違い、つまり、人々が、自分をものごとに合わせるのではなく、逆にどの程度ものごとを自分自身の価値観に合わせられると思っているのかということの違いが存在していて、それゆえ「外国人」であることは恐らく少しは好ましいのである。そして結局のところ、多分僕はより良い側面のことを考えていくのだろう。

推測だが、やはり海外のアニメマンガオタクたちの意識の中には、どこか辺境意識というか、オタク文化の中心地である日本に対するコンプレックスじみた屈折した意識が存在しているのであろう。それに対して上記の記事は、必ずしも日本的なものに依存せずともオタク文化を謳歌できることや、あるいは日本的なものの上澄みだけをサブカル的に換骨奪胎しても十分に楽しめる事例などを持ってきて、そういう点に自覚的であることができるという意味で「外国人」であることはむしろ有用でありうる、ということを示したかったのであろう。

もちろん、現役の日本人オタクとしては、日本人ですら日本の伝統文化はむしろ上澄みしか知らないのであって、ナルトが日本の伝統文化内在的に描かれたということは決してあり得ないのであり、その意味で日本人も外国人も同じではあるものの、しかし自分が上澄みとしての日本文化しか知らないのだということについてどれだけ日本人たちが自覚的であるかについては大いに疑問ではある。この人が言っていることはだから、一考の価値がある。オタク文化は日本で生まれたからこそ、むしろ日本の外でこそ十全に理解されうるかも知れないし、もしかしたらオタク文化を一番楽しめているのも海外のオタクかもしれないのだ。あたかも西洋の中世風ファンタジーの上澄みを喜んで受容したのが他ならぬ日本人であったように。

そして、あと、全然関係ないように見えるかもしれないが、同時に諸国民とかプロレタリアートとかについても思いをはせた。最近出た平凡社ライブラリーの『共産主義者宣言』には、諸国民はブルジョワ経済が生み出したグローバルな交通のネットワークに乗っかって全世界的に連帯することによって世界同時革命を起こすのだ、というようなことが書いてあって、まさに現代にこそ妥当する予言のようにも読める。そして、ブルジョワ階級によるグローバル経済は、あらゆる上部構造というか精神とか文化とかを破壊するので、万国のプロレタリアートは自国固有の文化を持たないある種非常に悲惨な存在なのだが、むしろその固有性のなさゆえに全世界的に連帯できるのである、というようなことが書いてある。

この固有性のなさとは、現代的に解釈するならば、明らかに行き過ぎた多文化主義のことである。つまり、ナルトのコスプレを、間違った着付の仕方だろうがなんだろうがお構いなしで楽しむ黒人のネーチャン、みたいな存在こそが革命的なのだ。それを可能にしたものの代表例が、日本のオタク文化である。最近海外のオタクの生態を少しずつ覗いていて発見したのだが、海外にも自前のウェブサイト持ってる同人女とか、ネット声優を志すオタク女とか、そういうプチ片霧烈火とでも言うべき存在がいるし、ブログで毎週アニメの感想アップしてるアニオタとかいるし、それらの文化の基礎となる2ちゃんねる的巨大掲示板に対応するものとして4chanなるものもある。そして、4chan的海外オタク文化が重要なのは、そこにおいてコミュニケーションが英語で行われているということで、英語でやり取りする限りまさに文字通りの諸国民がそこに入り乱れているのである。英語さえできれば、イタリア人であろうが中国人であろうがインド人であろうがアメリカ人であろうが日本人であろうがそこに参加できるのだ。もしかしたら英語とオタク文化という両輪こそが、プロレタリア革命の主要な武器となるのかもしれない。そこにおいて我々は、工場で搾取される労働者たち、というステレオタイプなプロレタリア像を捨てねばならないだろう。この場合のプロレタリアに最も近いのは、無職や童貞やひきこもりやニートであり、1さんや名無しさんであり、としあきであり、そしてAnonymousである。