hkmaroのブログ

読書の感想など

七月十四日 現代のオレステス

七月十四日。昼間労働し、高田馬場のディスクユニオンに行く。何でもあるというわけではないが、馬場近辺のCD屋(といってもそんなにないが)の中では多分一番グッと来る品揃え。Arti E Mestieri のファースト、セカンド、あと二千年に出た murales というアルバムを買う。とにかくファーストの Tilt が超名盤である。昔Janisで借りてきたやつをダビングしていつも聞いていたのだが、現物がほしくなって買った。

特にこの曲が良い。曲名にもあるが、陰と陽、静と動、このダイナミズムが人力ドリルンベースとも言うべき超人的なドラミングによって、またその上に乗っかるユニゾン的メロディーによって、まことに力強く表現されている。

いつも思うのだが、私は静と動が同居する音楽にひかれるようだ。このダイナミズムは一種音楽の本質だと思う。ダイナミックであることとは、変化することであり、時間的継起の中で人間の聴覚的経験に起伏をもたらし、時間を彫塑するのが、すなわち音楽という表現形式の根本的な性質であろう。もちろんそれは聴覚的経験の内部にとどまることなく、聴覚を媒介にして、あるいは空気の振動とそれを感じ取る諸器官を媒介にして、「脳」に刺激を与えるがゆえに音楽は神秘的なのだろう。その経験は聴覚を超越する。かといって単純に他の諸知覚に広がっていくというわけでもない。人間は音楽的経験の中に、意味を見出すし、単純に不可解な「脳」や神経の機能としてリズムに反応してしまう自己のどうにもできない身体性を見出すし、その身体的動物性についての内省においてさらに別様の意味をも見出す。意味と神秘との中間にあるのが音楽的経験である。これは、音楽が必ずしも言葉を用いない芸術だから、などという皮相的な意味で言っているのではない。音楽にも意味的な区分はある。意味は人間が作り出すことのできるものである。どんなにメジャー調の曲でも、それを受容するものの文化によって、人は悲しい気持ちにすらなる。

夕方から新宿でM岡さんと、あと4コマ漫画家の先輩と飲む。M岡さんは加藤智大の書いたという本を持っていた。是非読みたい。
最近また酒鬼薔薇とか加藤のことをよく考えていて、以前から思っているが、彼らに共通しているのは母親との関係に問題があったということである。「性的サディズム」だとか、「顔がブサイク」だとかいうことは、本当の問題ではない気がする。性的サディズムなるものは、調べれば調べるほどに年齢相応の心の弱さを持っていた中二病気質の少年酒鬼薔薇にとって、まさに中二病の症状の一種に過ぎないのではないかという疑いが高まってきた。一橋文哉の『未解決』に収録されている酒鬼薔薇のノンフィクションは、読んでみたところ扇情的で信頼性に乏しい。資料や取材対象者たちもはっきりとしておらず、これだけを読んで「殺したときに射精した」というような酒鬼薔薇像を作り上げるのは危険だ。加藤にしろ、ブサイクだとか孤独だとかいうのは偶然的なトリガーであって、そのような、「喪男」であれば誰だって経験する鬱屈を、あのような暴力に変換してしまう回路こそが問題なのだ。中島岳志の著書『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』によれば、その回路は、異常に厳しい母親のしつけによって一種の防衛機制のようなものとして形成されたものであることは明らかである。加藤本人はこれを「いつもの行動パターン」として語っている。酒鬼薔薇の母親も異常に厳しい母親だった。しかし、厳しいことが問題なのか? 厳しいことというよりも、愛情がないことが問題なのではないかと、少なくとも子供が母親からの愛情を感じ取れないことが問題なのではないかと、私は思っている。
昔から母親の愛情こそが子供の成長に最も大きな影響を与えるのだ、という説はあって、私の知る限りでこの説を最も大きく広めたのはフロイトである。そして日本では吉本隆明がそれを大きく取り入れ、吉本の影響下にある様々な思想家もこれを踏襲した。おそらくこの説を採用するものの多くは、自身母親との関係に問題を抱えているという自覚を持つ者であっただろう。岸田秀はそうである。岸田を信奉する本田透もそうだ。私自身は昔これに懐疑的であったが、今はまったくこの半ばオカルト的な説を信仰してしまっている。酒鬼薔薇や加藤が受けた教育ママゴン的な悲惨な仕打ちの話を聞くにつけ、彼らが凶悪な殺人犯であるにもかかわらず同情の念を禁じえないからである。加藤はまず死刑になるだろう。しかし、だからといって加藤的人間がいなくなるわけでは決してない。前から考えているが、教育ママゴンこそが、そしてそういう母親を生み出してしまうこの社会こそが犯罪の真の原因なのであり、これを根絶しなければ決してこういう犯罪はなくならない。もちろん、こういう犯罪はまれなのかも知れないが、犯罪として表面化しない水準において、プチ酒鬼薔薇、プチ加藤が、酒鬼薔薇や加藤に同情してしまう人間が(私もその一人である)、無視できない多さで存在しているこの社会は、個々の凶悪犯罪に還元できない大規模さで基本的構造に支障をきたし始めているのかもしれない。そういう直感は、私個人に関して言えば、酒鬼薔薇や加藤のように殺人を犯しはしなかったものの、学籍つきのニートとして数年を過ごしてしまった自分自身の不作為が証明しているように思える。世界を殺そうとするベクトルと、世界から逃避しようとするベクトルは、間逆のように見えるがその根本動機は同じなのではないか。
私は、私自身を含めて、酒鬼薔薇や加藤のような存在をオレステスと呼ぶことを考えている。オレステイアの系譜というものを、世界史的な規模で考えることができないかと妄想している。上に挙げた何人かに加えて、確かバルザックも母親を恨んでいたし、エヴァの庵野秀明は母親の話を決してしたがらないほどに大きな確執を抱えているらしいという話が、クイックジャパンのインタビュー本に書いてある。酒鬼薔薇が、決して良い感情を抱いていたとは思えない彼の母親に対して似顔絵をプレゼントしたなどという話や、加藤が、虐待的な教育を受けていたにもかかわらず母親との関係を作り直そうと努力したなどという話を聞くと、昔に読んだオレステイアの話を思い出す。オレステスは両親や姉の痴情のもつれに巻き込まれ、道具として利用され、母殺しの罪を背負い、最後にはそれに耐えかねて発狂するのである。個人的な実感として、通俗的なエディプス的類型は機能しなくなっていると思う。今、明白にオレステス的類型こそが問題なのだと感じる。