hkmaroのブログ

読書の感想など

七月十三日

七月十三日。昼:生協食堂のから揚げ丼。私が生協食堂を好むのは、単に安いからだけではなく、フードコート形式に近いからなのかもしれない。夜:吉野家のねぎ塩豚丼。

No theoretical or ideological predilections, in other words, mediate between themselves and the text: to describe George Eliot's later world as one of 'mature resignation' is not ideological, whereas to claim that it reveals evasion and compromise is. It is therefore difficult to engage that it such critics in debate about ideological preconceptions, since the power of ideology over them is nowhere more marked than in their honest belief that their reading is 'innocent'. It was Leavis who was being 'doctrinal' in attacking Milton, not C. S. Lewis in defending him; it is feminist critics who insist on confusing literature with politics by examining fictional images of gender, not conventional critics who are being political by arguing that Richardson's Clarissa is largely responsible for her own rape.

(間違いだらけだろうが、翻訳版を持っていないので下記に参考まで拙訳(だいぶ意訳)を載せておく。こんなのでもエキサイト翻訳よりはマシだろう)
理論的な、つまりイデオロギッシュな偏向は、言い換えれば、それら自身とテキストとを調停するものではない。ジョージ・エリオットの後期の世界観が一つの「成熟した諦念」であると言うのはイデオロギッシュではないが、それが逃避と妥協を露呈させていると批判するのはイデオロギッシュである。イデオロギッシュな先入見について、こういう批評家達と会話をするのが困難なのは、自分の読み方が「純粋」であるという彼らの真率な確信の中にイデオロギーの影響力が最も強く存在しているからである。ミルトンを攻撃するにあたって「教条主義的」だったのはリーヴィスであって、擁護したC.S.ルイスではなかったし、ジェンダーの虚構のイメージを吟味することで文学と政治を混同するのはフェミニストの批評家達であって、リチャードソンのクラリッサがレイプされたのはおおむね彼女自身のせいだと論じることによって政治的であるような保守的批評家達ではない。

こうイーグルトンは書いてはいるが、ideological な批評のほうが批評らしいし面白い。それに、conventional な批評は要するに現状追認でありつまらない。

しかし、こういう面白い批評こそが批評だと認められがちであるという事情は、たとえば宇野常寛みたいな批評家がもてはやされる理由でもあるだろう。が、conventional な批評とはいわば幇間でありこれはもっと最悪だ。積極的にideological であることや、ideological であることを恐れないことが大切なのではという気もする。そうしたときに、doctrinal なイデオロギーを抱かせてくれるような批評家に出会う経験を持つかどうかということは非常に重要な分かれ道となるように思う。いずれはそのドクトリンから脱却せざるを得ないにしても。そうした不可解な魅力を持たない、過激さのない批評家とは、面白みのないただの抑圧的な中年でしかない。



最近読みたい本がどんどんシンプルになってきていて、いい兆候だと思う。とりあえず今読んでいるリテラリー・セオリーを読み終えたら、次はフレドリック・ジェイムソンの『ポリティカル・アンコンシャス』を読もうと思う。英語に疲れたら携帯電話で青空文庫夏目漱石を読んでいる。今まで夏目漱石をほとんど読んでいなかった。まず『吾輩は猫である』から、頭を休ませたいときに読んでいるが、意想外に面白い。笑えるし、こういう小説は、現代で言ったら4コマ漫画に相当するものだろう。まったりする。