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hkmaroのブログ

読書の感想など

七月七日、八日、九日

七月七日。何があったか忘れた。七夕の日のはずだが、そういう風物詩が日常生活から存在しなくなって久しい。こういうものは積極的に生活に取り入れなければならぬものだ。蚊がいなくても日本人は蚊取り線香を炊かねばならないし、その匂いで夏を感じなくてはならぬ。もちろん蚊取り線香自体は別のもので置き換え可能だが、時間的継起を作り出す対象やその経験として、蚊取り線香的なものは必要だ。それがなければ、人間はより動物に近づいてしまう。

七月八日。昼間は同人誌の打ち合わせ。夕方に新所沢から秋津までチャリを飛ばす。そこにあるのは人の生活である。生活、生活、生活。子を負う母親。犬を連れた坊主頭の中学生。老いた母親を車で実家まで送る夫婦。どこまで行っても生活だ。今の私は自分が生活から遠ざかっている浮遊した存在であるが故に、逆に生活的なものに憧れるのだが、しかしもしも所沢に生まれていたら、やはりこの生活だらけの空間を嫌悪していただろうと思う。生活は、中学生時分の私にとっては内部であり、『惡の華』風に言えばクソムシであり、酒鬼薔薇風に言えばブタであり、『オモイデ教』風に言えば凡庸なものでしかなかった。クソムシは無視してもいいし、ブタは殺してもいいし、凡庸は唾棄すべきなのだった。唾棄すべきであった生活なるものが、今の私にとっては反対に外部である。都市には生活はない。ないと言い切っていいのかわからないが、私には少なくとも縁がない。都市にあるのは日常めいたものであり、その日常もどきは、テレビドラマやテレビアニメやマンガが小説や映画が供給するイデオロギーとしての「日常」を再現しようと努めて作り上げられる足元の腐った櫓のようなものである。

七月九日。太陽の照る季節になった。私は子供のころより、太陽を好きだったことはなかった筈だったのだが、いま太陽が異常に好きになった自分に驚いている。生活なる観念への態度が変化したのとおそらくは関係があるだろうが、それに加えて、自然に対する態度も変化した。それが原因だろう。自然は、田舎に生まれた者にとって、内部と外部を切断する境界として聳え立つものである。自然は、何か無機的な敵として認識される。中学生は、越境者たらんとして、自らの肉体と自転車のみでもってこれを超えようとするのである。そのような敵としての自然が、いまの私にとってはやはり外部として認識される。宮台の脱社会的存在は、風にコネクトするものなのだそうだ。柔和な脱社会的存在は、自然と戯れたり、日常生活のホメオスタシスを一時停止させ変成意識を生み出すような神秘的な体験をすることによって、殺人や犯罪を犯さぬ柔和な脱社会を遂げたものとして称揚される。だが、思うに、それは単なるオッサン化ではないか。脱社会的存在が、自己の脱社会性をそもそも外部として認識できなくなったり、あるいは、自分自身が最初から内部的な身体を持っていることの限界に突き当たったとき(『悪の華』仲村が自分のクソムシに気づいたり、酒鬼薔薇が少年院で自分自身が他ならぬ「ブタ」呼ばわりされてキレたり、『オモイデ教』の八尾がトー・コンエと自分自身の相似に気付いてしまったりするのと同様に)、クソムシでブタで凡庸でしかなかったはずの生活が、逆に外部として見えてくるのではないか。それは、脱社会的存在の変節であり転向であり不徹底だ。脱社会的存在も、ただの人間であり、オッサンにもなればオバサンにもなる。そういうことでしかない。