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hkmaroのブログ

読書の感想など

大津の中2いじめ「自殺」事件が話題になっている

大津の中2いじめ「自殺」事件が話題になっている。ネット上では大半の人の反応は、いじめの事実を隠そうとしたり、あるいはいじめと自殺の因果関係を否定しようとする、加害者の保護者や学校(や警察)の対応を非難するものであった。もちろんネット上でなくても大半の日本人が、このような対応には憤りを覚えるであろうが、特にネット上でこういう風に束が出来上がって行く様は興味深い。例えば原発とか生活保護とかに関してはネット上の言論は基本的に真っ二つに分かれていて、<反原発かつ生活保護基準緩めろ>という主張のセットと、<反反原発かつ生活保護基準厳格化しろ>という主張のセットで簡単にまとめることができた。しかし、今回のいじめに関しては、基本的に<反反原発>セットだろうが<反原発>セットだろうが、学校(や警察)の対応はクソ、という議論の流れになっているように思う。もちろん、すでに「いじめという大義名分を得て欣喜雀躍しまたぞろいじめ的構造を再生産しているネットイナゴども」を批判する「リベラル」な言説は出始めてはいる。しかし、今回の件が原発生活保護と明らかに違うのは、これが資源の問題ではなく、ある種のトレードオフが必ずしも存在しない問題だという点だ。例えば原発は、いくら原発が危険であろうと、それが存在しないことによる不利益の方が大きいのだ、という言説が可能であれば、国論は分かれることになるし、例えば生活保護では、いくら生活保護が福祉として重要でも、そのせいで国政に支障が出る可能性がある、という言説が可能であれば、これまた国論は二分する。もちろんそれ以外にも、原発についても生活保護についても色々なアジェンダは存在するだろうが、基本的には、どっちをとったほうがいいのか、という利益考量の結論が二通り存在することが問題である。だが、いじめに関しては、これはどんな人でもいじめはないほうがいい、と言うしかない(いじめが存在する事による利益なるものが実際にあって、それが、いじめがないことによる利益よりはるかに大きいと科学的に証明されれば別だが)し、また、学校(や自治体や警察)がいじめの件で糾弾されて業務遂行に支障が生じた際の不利益のほうが、学校らによっていじめの事実が隠蔽されていじめ被害者や遺族に正当な補償が行われないことによる不利益よりも大きい、などという結論は到底出せない。

ところで、原発のことについてもう少し考えてみると、反反原発とは、原発を(今すぐに)とめることは、大きな経済的損失その他の不利益を生むのでダメだ、という考えであり、これは要するに too big to fail の考え方だ。原発はあまりに大きいので、それをつぶすと我々の日常生活が脅かされる、それゆえ(しばらくは)維持すべき、ということで、これは破綻しかかっている大資本に国家が公的資金を注入するのと同じ論理である。too big なものとは、あまりに大き過ぎて、我々の日常生活の自明性の一部となってしまっているようなものである。

この考えをいじめ問題について当てはめてみると、学校(や警察や市政・県政)は too big でありこれを潰すと日常生活の自明性が崩壊するので、いじめの事実を隠蔽し糊塗してでも維持せねばならない、という論理は成り立つであろうか。なるほど、学校その他に勤める職員はいるし、学校その他の公的な法人から仕事を受注して土地の経済が回っている側面は確かにあろうが、日本列島全国津々浦々に住まう大多数の日本人にとってそこで潰れる何かは too big とは到底言えない。故にネトウヨだろうがブサヨだろうが、いじめを隠蔽しようとする「村人・官僚」を断固決然と叩く事ができるのであろう。

では、この大津いじめ「自殺」事件において、ネット上で左右問わずある種の社会的義憤のようなものが大体一方向に統一されたりとか、その先鋭化した一部が加害者やその関係者の個人情報を晒したりだとか、という事態は肯定すべきなのだろうか。私は、無論積極的に肯定すべきとも思わないのだが、しかしこれを否定すべきとも思わない。せいぜいこの中学校の担任のように、「やりすぎんなよ」とでも述べるのみである。つまりどっちかというと肯定的である。なぜならば、いじめと自殺の因果関係を認めようとせず、学校側のいじめの放置に関しても「誰が、いつ、どこで、どのようないじめを目撃し放置したか具体的に指摘していない」などという屁理屈じみた反論をするのであれば、学校側のほうが「自殺にはいじめとは全く切断され独立した重大で明白な理由があったこと」(そんなものがあるとすればだが)を証明すべきであるし、同様に「誰が、いつ、どこで、どのようにいじめに対して積極的に介入したのか」をはっきりと提示すべきであるのに、今の所そのようなことをしたと聞こえてこない学校側には、法を超えたサンクションが与えられねばならないと思うからだ。なぜそんなことを思うのかと言えば、いじめはないほうが良いからだ。そしてそのためにならイズムの左右を超えて「連帯」できるネットイナゴに私はある種の可能性を見出す。今回の「祭り」は、非常に社会的な意義があると思っている。もちろん個人情報を晒して電凸なんていうのはやりすぎかもしれないが、ネット上で匿名化され抽象化された「国民」による主権というか意志の発動として、社会が公正さを部分的にせよ得られるきっかけになるというようなことが、もしかしたらあるかもしれないと思う。ネット社会には、ネトウヨとブサヨが未分化な地点にこそ大きな価値がある。右と左が分裂してしまった場合、単に主張が二通りに分かれてしまうだけでなく、そこに付随する両論のメンタリティの違いなどから、右翼は「反サヨク」になり、左翼は「反ウヨク」になり、形式的に主張が決定され、形式的にいがみあうということにもなろう。そうしたときは、利益考量などというものはどっかに吹っ飛んで行ってしまう。

右翼と左翼がまだ未分化でいられるような、 too big でないような社会悪を、ネット上の「連帯」が一つ一つ地道に fail させていったならば、最終的には左右は未分化なままで少しはデモクラティックな国ができあがるかもしれない。ネットがそういう風に機能すればいいのにと思う。