hkmaroのブログ

読書の感想など

七月四日、七月五日

七月四日。昼:てんや天丼。夜:松屋チキングリル。高田馬場の古本市に寄る。モンテーニュの旅日記を発見。速攻で買う。また、スティーブン・メネルという人の『食卓の歴史』も買う。どちらもアマゾンでは良い値段が付いているが安く買えた。ネットで高値が付いている本は他にエリアス・カネッティの本を安い値で見つけたが、これは多分買っても確実に読まないだろうから買わなかった。

七月五日。昼:ビッグエー弁当。今日は非番なので午前中近所の公園に行く。三歳児たちが、保母さんに連れられて、あるいは母親に連れられて遊んでいる。幼稚園の子供はわかるが、母親と一緒に来ている子供は、もしかしたら幼稚園や保育園に入れなかった子供なのだろうか。他に多いのはおじいちゃんおばあちゃん。チャリでやってきて、公園の鉄棒で懸垂を十回ほどやってまたチャリにまたがって颯爽と去っていく爺さんがいた。ちなみに私は二十九年近く生きてきてこれまで一回も懸垂を成功させたことがない。

英語の受験参考書として有名な、『英頻』をちょっと読んでみた。半分も解けない。最近は毎日一時間くらいは英文を読んでいるので、その辺の受験生よりは英語をわかるつもりになっていたが、そうでもないのかもしれない。しかし、参考書に出てくるような表現が実際の英文にはほとんど出てこないように思う。もちろん、たまには出てくるが、滅多にみかけない。ということは受験英語とは、滅多にみかけない英語を高校生に覚えさせるものなのであるようだ。自分が受験生だったころは全く気付かなかったが、こういうところが、受験英語がよく批判される点なのであろう。

ところで、受験英語ばっかりやってても英語の本は読めないが、同様に、英語の本を読んでてもなかなか受験英語は解けるようにならない、というのが面白い。受験英語では、恐らく語彙が足りなくて本物の英文は読めないだろうし、本物の英文ばかり読んでても、「古風」な受験英語の問題は解けないだろう。もちろん、昨今の入試問題の傾向として長文の内容理解を問う問題の割合が大きくなっているので、本物の英文に親しんでいればやはり八割程度の点数は取れると思われるが、受験英語が使用する「英語」と、本物の英文に使用されている「英語」とは、あまり重なりあわない部分もある、ということなのだと推測できる。これは、前者が試験のツールとして独自の発展をしてきたからという事情と、後者がコミュニケーションのツールとして、あるいは自然言語として発展してきたからという事情とが構成する差異であろう。だから受験英語が駄目なのだ、ということが言いたいわけではなく、おそらく受験英語は、学生の能力を測る道具として有効利用できるようカスタマイズされた、独自の有用性を持つ「言語」だろう。

そして、恐らくこの世のほとんど全ての試験が、多かれ少なかれ受験英語的な側面を持っている。ある能力を測る試験、という目的を持っていたものが、試験を効率的に遂行するための形式を必然的に持たざるを得なくなってくる。本来、能力を正しく計るためには試験などせずに、一月くらいの時間をかけて実地に能力を行使させてみるのがよいはずだ。しかしそれは非効率的だから、試験という「歪な」形式が必要となる。大学入試というのは、一般的に最も「歪な」試験の中の一つだと思われているだろうが、大学入試が計ろうとしている能力が極めて一般的な能力(論理的思考力、歴史的常識、科学的常識、など)である以上、実地の試験もクソもないくらい曖昧な部分をなしとしない能力なのであるから、それ自体非常に抽象的な試験となってしまうのは仕方がないのであって、むしろ資格試験などの「実学」の能力を問う試験のほうが、実地の作業の代替物としてペーパーテストや面接を行っているのであり、その「能力」が資格というお墨付きで実社会に出回ってしまう以上、本来受験英語なんかよりも何百倍も厳しい批判にさらされるべきなのだが、これらの資格試験は各業界や業界団体や国家と固く結びついているため、批判らしい批判は表に出てこず、それゆえ受験英語なんかよりももっと歪な試験が行われている可能性もないとは言い切れない。資格を持っていても使えない人材、というものが仮にいるとしたら、そもそもそういう資格を付与するための試験が歪すぎて意味がないからなのではないだろうか。

資格というのはもちろん象徴で、つまり水戸黄門の紋所である。だが、資格に類するものが一切存在しない世の中、というのも確かに不便そうではある。象徴の全く存在しない生活というのが不可能であるのと同じだろう。

英語の苦手な私が珍しく飽きずに読み続けている『リテラリー・セオリー』だが、ポスト構造主義の思想のところが非常に面白く、ポスト構造主義とは、1968年以降の現実の政治での挫折を経て、言葉の領域で、権威的な記号(つまり象徴)を脱構築していくことで人の意識を変革しようという思想であったのらしい。ポスト構造主義には全く興味がないが、これは資本主義内部において諸象徴の体系を「ハッキング」する、というような思想と非常に似ている。フランスのほうでそういう政治的実践を前提として発展してきたポスト構造主義はしかし、日本においては「スカ」としての八十年代的状況に寄生し、あまつさえそれを推進させてバブル的崩壊を帰結させたに過ぎなかった。欧米でそうだったように、ポスト構造主義は<男性/女性>という二分法を脱構築するフェミニズムや、<資本/大衆>というような階級を脱構築する素朴な左翼的思想と結びつかなければウソである。そういうところをスルーした「ハッキング」なるものは悉皆「スカ」、つまりカスである。ゴミである。またぞろゴミを、高度産業化時代のゴミという意味での産業廃棄物を積極的に肯定しようなどという腐った「思想」は一顧だに価しない。彼らは結局産業の仕組みに組み込まれて、一「村人」、あるいは一「官僚」として一生を終えるだろう。それは傍目には幸せな人生に見えるかもしれないが、思想的には単純な服従であり、敗北ですらない。幸せな官僚より、不幸せな懐疑者であることが必要なのだ。

そういう意味で、VOL的な人々の登場によって初めて日本の左翼はフレンチ・セオリー的なものを正当に受容したと言えるのではないだろうか。などと思った。