hkmaroのブログ

読書の感想など

七月一日

七月一日。雨。

新宿へ、原発やめろデモを見に午後から出かける。新宿へ着いて、まず昼飯を食った。すためしとかいう、あからさまにすた丼やをパクったバッタチックな店があったのでそこで食う。パチモンのくせに本物より高かったが、肉にスモーキーな香りが漂っている(そういう添加物が添えられているのか)し、ニンニク臭さもなく、もしかしたらすた丼よりもうまいかもしれない。その後紀伊国屋書店を冷やかし、新宿中央公園に行く。四時から雨の中色々なスピーチ。日大全共闘の旗などが立っていた。主催者松本哉や、ぺぺ長谷川の姿なども見かける。ミーハーな気持ちで彼らを眺めた。五時にデモ行進が始まったが、なんか運動慣れしている元文連構成員的な人々がシュプレヒコールを盛んに行っていて、それについていけなくていたたまれない気持ちになったので隊列から離れて先にアルタ前広場の集会場に行った。アルタ前では色々な人がしゃべっていたが、そのほとんどはわざわざ壇上に立って行うほどのものでもないし、いくつかの演奏や歌はパフォーマンスとしての練度に明らかに欠けていた。特に歌詞はもっと練って作れと思った。詩人としての才能がなければこういう場で自作の歌を歌うべきではない。逆効果にしかならないから。唯一小熊英二の喋りだけが聞く価値があった。理性と情熱が奇妙に同居してこそ知識人の風情が生まれるのだということを最近思っていて、それを確信した。柄谷行人が喋るかと思ったらいつまで待っても出て来ないので八時半頃帰った。悪霊とかいうラッパー? の冗長なシュプレヒコールは誰か止めろよと思った。従順に合唱していた民衆も心の中では早くおわんねーかなと思っていたはずだ。「未来を守れ」だのという空疎なスローガンまでをも唱和させられるところに集会における全体主義の萌芽があるように思う。原発やめろ、野田やめろ、だけを繰り返させるべきだった。このようなパフォーマーに見られるとおり、まともに集会として成立させるためにはあまりにも壇上の人々の革命的主体が未成熟であったように思う。つまり、グダグダであった。もちろん、デモや集会というものはそもそもそういうものなのかもしれないし、雨だからという理由もあったのかもしれないが、だとしたら私自身の身体的感覚としてそういうデモには行きたいとは積極的には思えないし、原発やめろ、野田やめろ、から姑息にも「子供を守れ」だのという剰余を蔓延らせる輩に同化したくもない。子供のことはもちろん重要だが、今回のデモにおいてはそれはとりあえず別の話なハズだ。松本哉の趣旨説明からもそれは明らかだ。民衆の声に聴く耳を持たない首相(そのような国家権力の独裁は議会制民主主義の特徴でもあろうが)に対して国民の主権をぶつけるということに今回の行動の意味があるのではなかったのか。よりいっそう、現実の政治というものへの関心が薄まった一日だった。ただ、六月二十九日に行われた記者会見における柄谷のキレ具合(短気、という意味で)を見て、こういう(理性と情熱が奇妙に同居した、その意味では信頼できる)知識人が推奨するデモという政治的行為に全く可能性がないと言い切ることもできないとも思った。

とりあえず今後はよっぽど行きたいと思わされる理由がなければデモには行かないだろう。