hkmaroのブログ

読書の感想など

わたしのココ『カラダは正直』 

※本文中にボーカロイドという語を使用しているが、わたしのココが使用しているのは東芝のLaLaSongというものでボーカロイドとは違うらしい。普及具合から言ってこういうものもゆくゆくは遡及的にボーカロイドと呼ばれるようになるだろうが、一応書いておく。本文は修正していない。

六月二十日に、わたしのココの『カラダは正直』というフルアルバムが発売になり、アマゾンでようやく六月二十二日に届いたので少し感想を述べてみようと思う。以下のなかでいくつか否定的なことも書くかも知れないが、こういうCDが存在していること自体は興味深いことだと思う。とりわけ、セカイ系的な心性が死んでおらず、むしろある種の進化を遂げている点や、それが詩人としてのインディーズ音楽家によって表現されている点において。

カラダは正直

カラダは正直

この『カラダは正直』というアルバムにはエロマンガ的世界を描いた曲がいくつか収録されている。動画サイトで活動してきたわたしのココの曲は、必然的に動画と一緒に作り上げられた世界観を持っていて、音だけを聞いて云々というものではない。だが、映像を伴わない音楽CDという媒体を使うことによって、このエロマンガ性はおそらく作家の意図に反してリスナーに対して過度に印象付けられてしまうであろう。そして、このエロマンガ性は動画においてはメンヘル的少女趣味とグロテスクテイストが融合した90年代的感性に覆われたイラスト群によってきわどいラインで神秘のヴェール内にギリギリ収まっていたように思う。そのヴェールが、アルバムの発表という、まとまった表現媒体の提示とともに取り払われてしまった。音はマキシマイズしすぎ、コンプレスしすぎ、音圧稼ぎすぎでダイナミックレンジに乏しく、そのせいか全体的に2〜3キロヘルツくらいの帯域が強調されすぎていて耳に痛く、かつ過剰なコンプは必然的に無駄なノイジーさを帰結させていて、「人形」にすら「内面」を見出そうとするその叙情的なスタイルに全く反する耳障りな音に仕上がっているし、ボーカロイドはリズム感が全然無く、メロディーラインの本来の姿を脳内で推測して再現することが難しい箇所すらある。つまり、音源として質が悪い。この欠点はインディーズだからという理由で免除されるものでは既にないことは明らかで、むしろインディーズでこそ「良い音」が追求されているかの感すらある現代において、カネがないことや規模が小さいことは、音へのこだわりとは徐々に無関係になりつつある。そして音の悪さと、ジャンルとしてのノイズは、これは全く別物であるし、逆にノイズミュージックこそは楽音の範囲を離れた音そのものへのフェティッシュなこだわりが結晶化せざるを得ないジャンルであろう。その意味でこのアルバムはノイズミュージックとして聞かれるべき価値をほとんど持たないし、音圧稼ぎをしているからといって資本へのアピールを含んでいるのかといえばそうでもないし、音だけ聴けば何をしたいのか全くわからないアルバムとなっている。音だけ聴けば。

動画サイトでの活動が、映像と音との複合的な知覚に働きかける表現を意図したものだとするならば、音楽CDは音そのものの純粋な知覚に頼った表現でしかないのだろうか。否である。音楽CD、特に歌ものの音楽は、歌詞とともに聴かれるのである。それゆえサブカルチャー時代のポップスのアルバムは詩集としても機能してきた。その昔、小説家とは詩人になれなかった者のことを意味していた。現代、小説家とはミュージシャンになれなかった者のことを意味する。そうであるならば、動画サイトにおける表現とは違い、わたしのココのこのアルバムには、詩集として評価されねばならない側面、及び、音楽と詩の複合的知覚に働きかけてくる作品として評価されねばならない側面が存在するということになろう。

はじめに述べたとおり、わたしのココが書く歌詞はどうみてもエロマンガでしかない曲がいくつかある。あるいはエロマンガ的即物性を持っていると少なくとも言える。一曲目「ショーのはじまり」は確かに「わたしのすべてを見てみたいの?」「ほらこんな風になっているんだよ」「カラダは正直ね」などの表面上のエロマンガ性を逆手にとって、<「わたしのすべて」を見てしまった「あなた」がその気持ち悪さに対してカラダだけは正直に反応してしまう>というエロマンガ的展開とは間逆の内容を書いた詩なのではあるが、しかしその反転はエロマンガというジャンル自体がそもそもはらむ逆説である。SM、レイプ、寝取られ、痴漢、痴女、四肢切断、死姦、こうしたものはエロとグロの境目に存在していながら、今もってエロマンガの重要な主題として存在し続けている。エロチックな気持ち良さと、グロテスクな気持ち悪さは、ほとんど表裏一体なのである。今現在オタク文化の中でも最も強烈な欲望が集まっているという意味で最前衛の表現媒体に含まれるエロマンガの物語類型の主流である和姦ものにおいても、こうしたグロさを孕むエロ行為の模倣によってエロシーンは成り立っている。和姦なのに、同意なしの中出しなどというレイプ的性行為は、エロマンガの世界においては日常茶飯である。つまり、プロローグである「ショーのはじまり」からしてエロマンガ的世界を逸脱するどころか、エロとグロが同居しているという意味で、むしろエロマンガ的世界の本質を表現している。四曲目「天使のいない街」においてはそれはより露骨になり、ここでは「せめて今晩はわたし使って/あなたの欲望をぶつけて欲しいの/わたしはそのためだけに生まれたから」などと、メタエロマンガ的とも言える詩が編まれている。そしてこのエロマンガ的傾向は六曲目「いけない放課後 〜School Desk〜」において極まる。「腰を動かして/息が上がって/机がぬれる/あいつらが笑う」「だけどああ/気持ちよかったの/気持ちよかったの/気持ちよかったの」。虐めが快感へと簡単に転じてしまういかにもエロマンガ的な予定調和の世界の法則にのっとった表現である。正しくは、「天使のいない街」における「わたし」と同様に欲望の対象でしかないようなエロマンガ的存在を、この「いけない放課後」も表現しているのである。

上記にみたような、エロマンガ的な歌詞世界のラインとは別に、あるいは並行して、自意識の問題や自己評価の低さというテーマを描くラインがこのアルバムの歌詞世界には存在している。例えば二曲目の「わたしと歩いていると恥ずかしいの」というタイトルそのものがそれであるし、また三曲目「フォルマント」においても「連続した世界」から切り取られた音を用いる「わたし」は、「電子の翼」という「だた一つ」の道具でもって音に「意味を摑」ませ、「認識をつな」ごうとする。これはおそらくボーカロイド自体を歌詞にしたものなのだろうが、それ以上のテーマ、すなわち世界の断片化というテーマがここには読み取れるのだ。「連続した世界」とは有機的連関を有した全体性を意味しているだろうし、そこから切り取られた音を使う「わたし」は、全体から疎隔された断片ということに必然的になる。そして断片でしかない「わたし」には「抑揚 表情 仕草 息遣い/かたちもなく心にふれるもの/何一つ」許されてはいないのである。このような空虚な断片としての「わたし」はアルバム全体を通して繰り返し表現されるモチーフだ。四曲目の「天使のいない街」においてはこの空虚さは「神様 わたしの物語/こんなにも からっぽ…」というフレーズに直接的に表現されているし、七曲目「ぎぶみー☆LOVE」でも「見捨てられた世界で/わたしたち欠けたピース」という、「世界」と「ピース(=断片)」の対比は明らかに意識的に描かれている。八曲目「マイ・オールドマン」では「世界に、わたしたちの居場所はないけど」などの言葉に、九曲目「ララのうた」では「ああ 欠けたわたしのこころ/ああ 壊れたわたしのからだ」あるいは「世界中に 届けたいよ/だけど わたし もう歌えなくて…」という言葉に、同じものの対比、すなわち「世界」と「わたし(=断片)」の対比と二者間の乖離が描かれている。そしてこのような視点からエロマンガ的詩世界そのものと思われた一曲目の「ショーのはじまり」を見てみると、また違う解釈も可能となる。「わたしのすべて」とは、所詮「断片」に過ぎないわけであり、そこに仮託されて表現されているのは、グロテスクな気持ち悪いもの、というよりも、取るに足りないつまらないもの、という意味を帯びてくる。そして、おそらく作者の意図としてはその両方の要素のあわいを表現したかったのであろう、と推測できる。つまり、アルバム全体に登場する「わたし」とは、ジャケットイラストに描かれているような外見上の可愛らしさとは逆に、裏側にグロテスクな気持ち悪さと同時に、ある全体の一部分でしかない断片としての空虚さを持つ存在なのである。

今から十年くらい前にセカイ系という潮流が栄えた。セカイ系は、一般的には主人公の少年と美少女の関係性がそのまま世界の運命を左右してしまうという奇妙な平行性のもとにある物語だと理解されている。そこには社会という、個人である少年と世界とをつなぐ媒介項が美少女くらいしかなく荒唐無稽だとして批判された。つまり、個人と世界が飛躍的に一挙に結びつくのがセカイ系であり、また、その飛躍的な世界との一体化が幼稚なファルス的願望を隠蔽しつつ温存しているとも言える。このような批判を展開した者の代表格が宇野常寛であることはよく知られていることだ。しかし、セカイ系とはある種の断念の帰結として導き出された潮流であった。セカイ系の代表作を紐解いてみると、あるいはセカイ系の時代を象徴する美少女ゲームの数々を実際にプレイしてみると、そこで描かれているのは主人公たちの無力感なのである。宇野に言わせればこの無力感が「マチズモ」を隠蔽しているのだ、ということになろうが、しかし所詮ムードに過ぎずとも断念というムードが少なくとも表層においては支配していたのがセカイ系であった。それを踏まえると、この『カラダは正直』における、「世界」と「断片」との断絶は、セカイ系的感性の延長線上にあるといえるのだが、しかし十年前のセカイ系と根本的に違うのは、旧来のそれが無力感の上にあるとはいえ「世界」と「断片」の一体化を空想上において描き出していたのに対し、本作においてはその空想すらも不可能であるという点だ。『カラダは正直』に描かれた無力感は、社会という媒介項を把握不可能になってしまった人間が、空想上ですら世界との一体化を果たせないという徹底した絶望を表現しようとする過程に出てきたものであろう。徹底したセカイ系は、セカイ系であることすらも諦めねばならないのだ。そうした意味で本作の歌詞世界から読み取れるような世界観は、ポストセカイ系とでも呼べるようなものである。「社会」がもはや不透明であることは所与の前提であるにしろ、空想の中ですら「世界」との短絡的交流が許されず、ただひたすらに「断片」として空虚な絶望を生きるしかない、という、もはやありふれたセカイ系批判が批判し得ない領域にまで突入している。(より正しくは、それが何も隠蔽すらできないがゆえに批判する意味がない、と言ったほうがいいかもしれない)

だが、議論の流れをひっくり返すようで恐縮だが、ではなぜそもそもセカイ系セカイ系でなければならないのか。セカイ系を徹底したあとには絶望しか待っていないのであれば、セカイ系などさっさとやめて、社会適応的に自己改造に励みつつ生きていけばいいのではないか。こうした質問が意味を持たないのは、そもそもそんなことが不可能だからセカイ系者はセカイ系者になったのだからである。セカイ系にはなろうと思ってなるのではない。気がついたらセカイ系なのだ。社会なるものの巨大化、システム化が進むほどに、セカイ系セカイ系たらざるを得なくなっていくのだ。セカイ系が捨象した社会的なものとは、ラカンの精神分析用語を用いて、象徴的なものだと言われることがある。この象徴的な世界は、時代が下るごとに象徴の体系を巨大化させていて、諸象徴の関係性は複雑に複雑になってきていて、こんな時代を生きる我々には社会とは一体何なのかがすでにわからない。そんなよくわからないものであるにもかかわらず、社会はこの象徴の力によって成り立っている。この社会のわからなさが大きくなってくるところに、必然的にセカイ系が生まれる。わからないからこそ、セカイ系は社会をオミットして個人と世界を短絡させたのだ。

しかし、だからといってわたしのココみたいなポストセカイ系的な絶望の世界に生きている人々が、絶望しているだけで生きていけるわけがない。ではどうやって生きていくのか。自らを象徴化することによってである。わかりやすい社会のコマになることによってである。他人から与えられるレッテルの範囲内で生きることによってである。そうしたレッテルに甘んじることによってである。それがポストセカイ系時代における社会不適応者のささやかな、一見ごくごく平凡に見える処世術なのである。これが平凡でないのは、レッテルに甘んじる彼らセカイ系は、内面においてセカイ系だからである。

そして、そのように自らを象徴化させて絶望の時代を生きるものの代表格が、性を売って生きる者たちなのであることは言うまでもない。もちろん、だからといってこのアルバムの詩世界が、売春の世界を描いたわけではないのは明らかだ。それは、このアーティストが実際に性を売って生きているわけではない(多分)、というだけの理由からそうなのではない。自己を象徴化して生きることの苦しみを描くに当たって、象徴そのものを採用し、その中に擬似的に内面を読み込み、そのような象徴と内面の乖離を描くことが、そのまま現代のポストセカイ系的な絶望とアナロジカルにリンクするのである。この詩世界に登場するエロマンガ的な「わたし」と、現実社会の中で与えられたレッテルを何とか逸脱しないように腐心している我々とでは、いったいどう違うというのか。同じではないか。放課後に好きな人の机のかどでオナニーを命じられあまつさえ感じてしまう少女のように、そのようなエロマンガ的な役回りを演じさせられる少女と同じように、我々は常に何かを演じている。象徴の網の目に閉じ込められて生きている。しかもその諸象徴は複雑になりすぎて、自分が搾取されているのかどうかもわからない。しかし、何かが違う。何かが違うと思いながら、何が違うのかわからない。結局今生きているこの生き方が自分の望んだ生き方なのかも、などと思い始める。本当にそうだろうか、という疑問の声は内側からは消えて、社会の網の目と自分との摩擦だけが居心地悪く残ってしまう。そしてその居心地の悪さがきっと心も体も蝕んでしまう。心は空っぽになっていく。この空っぽさ加減に気付いた者がセカイ系だの何だのを自覚するだろうし、気付かなかったものは社会の網の目を複雑化することに貢献し始める。そして、居心地の悪さだけがどんどん伝播していって、雪だるま式に巨大化していって、どんどん社会は把握不可能になっていくのだ。

わたしのココというアーティストのもの悲しさは、その詩世界や可愛らしいイラストや美しいメロディーラインにあるのではない。また、それらが唐突なノイズに切り裂かれることにあるのでもない。そうした、アーティスト自体を構成する様々な要素が、それぞれ「三番煎じ」的な模倣の帰結として、「ありふれた記号のかたまり」でしかないから悲惨なのだ。詩はこれまで述べてきたようにエロマンガ的だったりセカイ系的だったりの模倣であり、イラストは二次元の萌え文化からの模倣であり、そしてメロディーはいわゆるJ−POPの模倣である。日本的なサブカルチャーの縮小再生産の産物が、フェイク文化の渦の中からキメラ的縫合を経て、ボーカロイドというそれ自体極めてフェイク的な媒介項を伴って、フェイクであることの悲しみを背負いつつ生まれたことが悲喜劇的なのである。この現代の日本において何かを表現するという行為自体が、歴史や、正しさや、本当のこと、などから断絶した、フェイク的なクズの寄せ集めによって表現することを意味せざるを得ない。それにも関わらず流通する多くの表現が、「真正」面をしてまかり通っている。クズが本物の振りをして表通りを歩いている。そしてクズと本物は見分けがつかなくなり、世の中はクズだらけになってゆく。世界のクズさに無自覚な人間が、社会の複雑さと暴力性を保存し拡大することに奉仕する。しかし、その社会から疎外され、この異常さに気付いた者は以下のような問いを発せざるを得ない。「どこへ歩けばいいの/何を目指せばいいの/何が残るというの/全てまやかしじゃないの/みんな動物じゃないの/人間はどこにいるの?/神様はどこにいるの?/正しいことはあるの?」。これらは青臭い言葉に過ぎないだろうか。考えてみる価値のない問いだろうか。もしそう感じるとしたら、なぜこれらの問いを価値がないと見なしてしまうのか、その心性を疑ったほうがよい。その場合、かなり高い確率で自分がクズに他ならないことが判明するだろう。