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hkmaroのブログ

読書の感想など

六月二十一日

六月二十一日。昼:てんやの天丼。夜:すたどんのミニすたカレー。

昨日も同じことを書いたが、最近時間のなさを痛感している。明らかに未消化の本の割合が増えてきている。この理由としては、ブログを書いていることと、英語を勉強し始めたこととが大きいと思う。英語は強いて勉強しようと思うので、消去法的な結論として、この日記をしばらく簡略化しようと思う。そもそも、こんな日記を頑張って書いてみたところで読む人などほとんどいないのだ。カウンターの回らなさ具合を見ればそれは明らかである。それに、毎日何かしら書いたところで、余人の面白いと思うものがどういうものなのか、私にはさっぱりわからないがゆえに、何を書いてもポピュラリティを得ることができない。昔は音楽(リアル世界でのバンドも、ネット上での曲公開も、同人音楽も)をやっていたが、作曲に関してもどういうところに大衆的な軸があるのかさっぱりわからなかった。まあ、音楽については単純に才能がなかったというところもあるだろう。しかし日記やブログは別である。日記やブログは、書く人に文才があるから読まれるのではない。と思う。もうこの辺からして認識のズレがあるのかもしれないが、世間で騒がれている人気ブログの文章が必ずしも文章として優れているとは言えないと私は思う。大衆性とは、そういう洗練と本質的な連関を有しているわけではない。と思う。

私は社会の階級としては明らかに一大衆なのだが、しかし価値観が大衆のそれと一致しない。言い換えれば、経済的には大衆なのだが、思惟は大衆的ではない。特にそれを痛感したのは、私が最も大衆と価値観をともにしている領域だと信じ込んでいたライトノベルの評価においてである。私が面白いと思ったラノベを大衆はけなし、翻って私がクソだと思ったラノベを大衆が翼賛するということが多々あった。もちろん、私も大衆もクソだと認定した小説もあったが、それはそのクソラノベが正真正銘のゴミだったということを意味するだけだろうし、私も大衆もが良作だと認めた小説に関しては、ほとんどの場合褒めるポイントが私と大衆とで全く違っていた。念のため申し添えておけば、ここでは大衆という言葉には価値評価を含めていない(つもり)なので、もしかしたら私が大衆に比べて知的に劣っているだけなのだということも十分ありうる。

私はライトノベル作家達や編集者達の想定読者ではないにもかかわらず、ライトノベルを面白がって受容している。いわばラノベ界というスフィアの外部からラノベを楽しんでいる(というのも私の勝手な思い込みかもしれないが、逆に言えば思い込みレベルの主観としては紛れもなくそうだと言える)。そういうところで、日本のオタク産業界の外部に位置している英語圏のオタクたちにやたらと感情移入してしまうところがあるのかもしれない。

ラノベの件と同じく、他の件に関しても、私はどうやら私以外の余人とは価値判断の基準において共有するところが極めて少ないように感じるので、こういうブログを毎日一時間以上もかけてシコシコ書くのも無駄といえば無駄だろうと思うようになってきた。なぜなら、このブログを読んでも余人の参考とするところが極めて少ないだろうと思われるからである。もちろん大前提としてこの日記は私自身の反省のためにつけているのであり、毎日書くことによって反省的自己、すなわち主体的自己、すなわち革命的主体を作り上げるのが目的なのではあるが、反面公開性というものを意識してしまって本当に重要なことを書くにあたってはあいまいな表現に頼るところがきっと意識的にも無意識的にも多々あったことと思われるから、そういう意味では自分の手帳にでも殴り書きすればよいような内容なのだ。未来の読者に向けて書く、という目的も、別に毎日公開しなくとも、ローカルに書き溜めておいて一気に公開すれば足りる話である。

つまるところ、私は大衆を嫌悪して外部を求めたにも関わらず、今度は大衆性との相容れなさに苦労しているというわけなのだ。大衆と向き合う活動家は偉いと思うが、しかしどんな活動家もきっと大衆のエネルギーを利用するために大衆を糾合するのにえらい苦労をしたはずだろうと思う。こうしたことはいつでも外部と内部のバランスの取り具合の難しさから帰結するのだろうと思う。最近宮崎学の『突破者』を読んでいるが(ブックオフで105円だった)、彼などは外部と内部の両方の世界で生きている人の代表格だろうと思う。佐藤優なんかもそうである。宮崎学佐藤優、と言えば柄谷行人であるが、彼の思想はそういう思想である。トランスクリティークとは、大雑把に言えば内部が盛り上がっているときは外部から批判をし、外部で盛り上がっているときは内部から批判をする、という話である。しかしこういう思想が成り立つにはそもそも外部という項が前提とされていなくてはならない。この傾向を吉本隆明は「外部」文学者め! などと言って批判していたのだろうと思う。彼のアジア的なるものの思想は、そういう「外部」批判の論理的根拠であっただろう。それに加えて「外部」なるものを利用するのは象徴を利用する人間でもある。象徴を、水戸黄門の紋所よろしく利用して差異の上前をハネる人間は排除されなくてはならないのだ。しかしながら「外部」によって可能になる革命も確実にある、というか、少なくとも主体的な革命は、いくらかは「外部」を利用しなくてはありえないのだ。なぜなら、現状のおかしさを知るには「外部」的視点がなければ不可能だからだ。

そして、私自身に関して言えば存在としてはどうしようもなく内部的である上にその内部においてもけっこう下のほうに位置しているにもかかわらず、いや、むしろそれゆえにこそ過剰に外部を志向してしまい、結果バランスがとれなくなっている。それゆえ大衆のことを理解することなど全く不可能でありながら、自分自身はどこからどう見ても大衆だ。こうした人間のことを中二病と呼ぶであろうし、私の年齢を考えれば、中二病をこじらせたオッサン、ということになるだろう。ネット上で人気を博している、IT技術者あがりのブロガー(英語とか社会学の話題をやたら書こうとする)などはその上位クラスということになろう。中二病をこじらせるだけでカネが儲かるようになるのであればそれは良いことではあるが、傍目にはどうも見ていて腹が立ってくるし、同じ中二病でも私の中二病は永遠にカネに繋がりそうにない。

とまあ、そういう事情が色々とあるので、時間も惜しいし、この日記は明日からは何か特筆すべきこともない場合は飯と天気のことくらいしか書かない日記になると思う。多分。