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hkmaroのブログ

読書の感想など

六月十八日

六月十八日。昼:味付けの濃いラーメン屋。夜:西友のから揚げ弁当。

人生の目標ができた。こう書くといかにも大げさに見えるが、そう大したものではなく、今後希望する職種が自分の中で大体かたまったという程度の意味だ。もちろん職など持たないのが究極の目標なのだが、現代日本では家が金持ちでもない限り嫌でも働かねばならないので、嫌々ながらでもいいので働ける職種、なるべく抵抗感の少ない職種、そういうものを考えてみた。この目標はすぐに変わるものであろうし、だいたい私のような人間のクズが人生において一貫した目標を抱けるはずもない。一貫した何かを保持している、と思い込むことはあっても、実際にはその時その時で気の向いた方向に進んでいるだけなのである。その証拠に、十年以上続いた趣味というものは私は持っていない。テレビゲームは最も熱中した期間と密度の大きかった趣味であろうが、これは今はもうほとんどやっていない。漫画は今でもたまに読むが、特段趣味と言えるほど読んでいない。読書はここ数年の比較的新しい趣味である。音楽は中二の時にエレキギターを始めてから十四、五年になるが、その間やったりやらなかったりしていて、続いているかというと微妙である。振り返ってみると私の人生とは、狭く浅く、という言葉がぴったりと当てはまる生き甲斐のない人生であった。自分探しなるものが流行ったり、それを批判するのが流行ったり、ということが世間では一時期あったようだし、今でも自分探しについては賛否あるようだが、思うにこれは自分探しという言葉が不味く、自分探しをしている人は自分を探しているのではなくて生き甲斐を探しているのではないだろうか。生き甲斐とか言うとジジババじみているからそう表現しないだけで、生きている張り合いというか、充足感とか、人生に夢中になるとか、ホラ、こうして言い換えてみようとするとどんどんジジババ臭くなっていく、こういった口にするだに寒気がするような、しかし万人が渇望してやまない何か、こうしたものを「自分探し」という、それ自体すでにジジババ化した感のある言葉に託して、人は放浪するのではなかろうか。生き甲斐、なるものを更に一般的な言葉に置き換えるとするならば、これは幸福、ということになろう。幸福。こんな言葉は日常会話にまず出てこない。ふざけて言うことはあるかもしれない。「オナニーをしている時が人生において最も幸福な時間です」というようなことを、人を笑わせようとして言うことはあるかもしれない。幸福を求めているにも関わらず、人は幸福なるものを空手形として扱う振りをして生きる。本来人間は、幸福を求めているからには、もっともっと幸福について意識的になっていないとおかしいのではないか。幸福、幸福、幸福について、家族、友人、恋人とともに、あるいは学校、会社で、語り合っていなくてはおかしいのではないか。あらゆることが幸福を基準に決められなくては変ではないか。しかしそうはならないのである。そうすることを妨げる何かがあるのだ。なぜ幸福という言葉を口に出すことが気恥ずかしいのであろうか。私は幸福ではない、と言い張らねばならないどういう理由があるというのか、あるいは私は幸福である、と言うことを避けねばならないどんな理由があるのだろうか。私は幸福である。こう述べたとたんに、「そんな程度で幸福なのか?」というツッコミや、「自分独りが幸福になってればそれでいいの? こんなにみんなは幸福じゃないのに!」という詰りや、「そんな幸福は長くは続かないからとにかくもっと勤勉になれ! 目先の幸福を捨てでも勤勉になれ!」という急かしが入る。しかし本来幸福とは純粋に内的な経験であるはずだ。もちろんあらゆる経験は内的な経験に過ぎないのだが、他人と比べてどの程度自分が幸福であるかや、他人が幸福であるかどうかや、未来の自分が幸福であるかどうかというようなことは、本来幸福そのものとは全く関係がない。当然社会関係からもたらされる幸福というものは社会学的に分析かのうかもしれないが、その幸福の経験と、社会関係とは別の関数だ。幸福を幸福として表現することは幸福の精緻な研究のためには本来必要なことであるはずだ。人が幸福であることと、それが倫理的に正しいかどうかということは、全く別のこととして取り扱われるべきものなのだ。彼が幸福を述懐する権利は認めるが、彼が幸福である権利は認めない、ということであるべきなのだ。その結果彼の首をギロチンにかけることになっても、幸福述懐権を認めることとはまったく矛盾しない。つまり我々人間はもっともっと幸福について敏感にならねばならないのだ。幸福なときは幸福を率直に表明し、そしてそれがなぜなのかを全人類のために考察せねばならないのだ。幸福の共同研究が必要なのだ。しかし、幸福とは一体なんなのか、ということは、どんなに研究が進んでもなかなか一様に定義することができない、むしろ、研究が進めば進むほど幸福の定義は難航を極めるものと思われる。そこで私は幸福の最低限の条件を「不幸が一切ない状態」として設定することを提案してみたい。そうすると、幸福を明らかにするにはまず不幸が一体なんなのかを明らかにせねばならないということになる。幸福の研究に比べて、こっちのほうはより簡単なように思われる。

なぜなら人は、自分の不幸を人前で嘆くことにかけては、どんなほかの生物の追随をも許さないのであり、幸福を人前で述べるのよりはより社会が寛容であるからだ。人はどんどん不幸になって、不幸を託ち、不幸についての認識を深めねばならない。