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hkmaroのブログ

読書の感想など

六月十七日

六月十七日。昼飯:コンビニおにぎり&パン。夜:西友の天丼とうどんが一緒になってる奴。冷めているけどそこそこうまかった。

また最近英語くらい読めないとだめだなという焦りが(もうかれこれ人生十回目くらい)湧き上がってきたので、勉強の一環として英語圏のオタク達のツイッターアカウントをフォローしてみたりブログを読んだりしてみたのだが、やはり外部の文化に親しむ人々というのはどこの国にいってもインテリであるようで、英語、日本語、あと一ヶ国語(スペイン語とかイタリア語とか中国語とかそういうの)を読み書きできる、というのが基本らしい。どのくらい操れるのかの程度はそれぞれ違うだろうが、日本の大多数のオタクは自分のプロフィール欄に「日本語、英語、あとロシア語もavailableだよ!」とは書けないだろうし、それどころか日本語すらちゃんと使えるのか怪しい。ちゃんと、というのは引退した学校教員とかが要求するレベル(漢字の書き順とかにうるさい)でではなくて、普通に論理的に、というくらいの意味で。

で、海外のオタクたちの中でもエロゲーの翻訳パッチ作ったり、アニメのキャプチャ画像や昔の日本のアニメの図版などをふんだんに取り入れた超長文の論文をブログにアップしたり、というようなアグレッシブな活動をしている意識の高いオタクはやっぱり大学の学生が多くて、まあ学生と言っても日本と違って理系の(特にコンピューターサイエンスの)学生が多いようだが、しかしエロゲーとかアニメとかマンガとかを、哲学とか美学とかを引用して語りたがる人間はやっぱりいるらしく、そういう人のアニメ評などを軽く読んだ。

で、日本と違うなあ、と思ったのは、海外の人が『まどマギ』を基本的に褒めているところだ。インテリ的な審美眼は『まどマギ』を否定せず、むしろ知的な観賞に耐えうるとして褒めている。これは日本では逆で、インテリ的な人ほど『まどマギ』を全肯定はしなかったのではないか、と私は実感している(もちろんタレント文化人たちは褒めていたが)。日本のインテリ的オタクがなぜ『まどマギ』を必ずしも全肯定しなかったのか、という事情は、『けいおん』とか『らきすた』、さらには『ハルヒ』アニメ版への評価をどうするのか、という点にまで遡れるであろう。また、『ヱヴァ破』の評価をどうするのかもこれに関わってくると思われる。あと英語圏の意識の高いオタクはまだまだ若い人が多い気がする。きっと彼らが日本での放映開始とほぼ同時にアニメを視聴できるようになるには、早くてもyoutubeの登場を待たねばならなかったであろうから、しかも安定したファンサブが速攻で供給されるようになるにはさらに時を経ねばならなかっただろうから、若いオタクしかいない(目立たない)のは当然かもしれない。

しかし、英語圏の人々がアニメやらエロゲーやらを、日本人以上に高度に知的に観賞しているのには少し驚いた。日本人は、なまじ日本語で即自的に二次元を享受できてしまうがゆえに、同じように長文のブログを書いても知性にハッキリと差が出ているように思う。日本人のオタクがツイッターやブログで書く「批評」ってのは、せいぜい好きなもの擁護か知識量自慢が関の山だ。理論武装するタイプの「批評」がないのは多分、その必要性がなくなったからだろう。オタクと名乗るだけで、あるいはオタク的なそぶりをするだけで、すぐさま迫害されるというようなことはいまあんまりないんじゃないか。一緒にアニソンを歌える仲間同士だけでカラオケに行けるようになっているし、そういう仲間としかそもそもカラオケになんか行かない時代だから。個別のオタクが他の文化から迫害される危険性は絶対に縮小していると思う。

前から思っているけれど、旧来型のオタクとかサブカル人間が抱えていた鬱屈を抱えている人は、現代では「オタク」というラベルに収まりきらないのではないかと思う。「オタク」というシンボルあるいはスフィアは、既にオタクたちにとって外部ではなくなっており、完全にクソムシ化している。そこからの差異を求めて、つまり脱クソムシ化を求めて哲学とか批評とかに行くという流れが、なんかあるような気がする。というか、私自身がそういうものである可能性を否定できないというよりも大いにそれだ。それそのものだ。書いていて恥ずかしくなるが、中二病的な精神は治癒しない限り常に外部への超越を求めるものだからしょうがない、こればっかりは。