hkmaroのブログ

読書の感想など

六月十五日

六月十五日。晴れ。昼:松屋のチキングリル丼。

惡の華』六巻の、スレの書き込みや、読書メーターのコメントや、ツイッター上の反応をそれぞれ眺めてみたのだが、びっくりした。みんな仲村さんと佐伯さんのどっちが好きとかいう話しかしていなかった。多少ともメッセージ性を読み取ろうとしている感想も、思春期がどうとか男女の精神年齢がどうとか存在がどうとか、あまりに酷い。コレコレ、コレが動物化だよ! っていう感じ。ちょっとこれは作者が可哀想にすら思えてくる。あれほど明示的に「向こう側」とか「外」とか作中で言っているのに、「内」(=クソムシ)と「外」(=向こう側)の対比を読み取っている読者が全くと言っていいほどいない。酷い。マンガって一体なんだろう、と思う。なまじ萌え萌えな表現が可能であるがゆえにこうした誤読というか動物的誤配が起こってしまうのだろうか。とすると、先日日記に書いた予想とは裏腹に、マンガとは、むしろバカ量産機でしかないということになってしまう。「クソムシ」をあれほど徹底して嫌悪している『惡の華』が、逆に「クソムシ」を大量に生み出してしまうことにしかならないという、一種絶望的な状況が、少なくともネット上を覗く限りはハッキリと見えてくる。それとも、作品をちゃんと読んでいる読者はネット上に感想など描かないのだろうか。だが、それはそれで絶望的な状況ではある。ちゃんと読める読者は、同時に発信者でもあることが私の理念に沿う。

「内」とか「外」だのという枠組みでの読み方が「ちゃんと」した読みかただとここで私が断言しきっていることは、私が私自身を相対化できていないということを意味するだろうか。決してそうではないと思う。目の前に崖があるのに、「崖は無い」とする解釈と「崖がヤバイ!」とする解釈とは等価である、と言うのは相対主義でもなんでもない、ただの蒙昧である。

一ヶ月前くらいの日記にも書いたが、このマンガは『ヒミズ』とかと同じ水準で評価されるべきマンガなのであり、また、現代日本の田舎及び脱社会性という文脈を同じくしている点で青山真治の映画とかと並行して評価されるべきマンガなのだ。私はこの度『惡の華』というマンガに出会えたことによって確信したが、マンガが面白くなくなっているというよりは、マンガ読者があまりにクソムシ化しているのだ。「惡の華おもすれーwww」とか言ってるゴミどもは自身のクソムシ性を知らない。そうしたクソムシどもへの憎悪を、このマンガを密教的に受容する真の読者たちは、仲村・春日の二人と共有するであろう。「仲村さん」と「佐伯さん」を「ヤンデレ」などといういかにもクソムシ丸出しなレッテルで評価する前に我々サブカル人間が真っ先に参照すべきなのは『逆襲のシャア』におけるシャアとアムロである。