hkmaroのブログ

読書の感想など

六月十四日

六月十四日。晴れ。昼:オトボケのジャンジャン焼き定食。

最近昔の演歌とか歌謡曲とかの動画をよくyoutubeで観ている。

坂本冬美の「夜桜お七」。これは最近気付いたのだがすごい曲だ。静と動のダイナミズム、ニューウェイブ的な熱い8ビート、それらの上に映画劇伴的な臭く分厚いオケが乗り、激しいアニソン感を演出している。というか、ゴチャゴチャとうるさいだけの最近のアニソンよりもよっぽどアニソン的だ。その昔Laputaのakiが、ラジオで坂本冬美リスナーであることを語っていたが、この名曲を聴けばそれが決して不自然なことではないとわかる。特に、サビの後半部分の盛り上がりは、Laputa的な臭いメロディと共通するところがあるように思う。

石川さゆり天城越え」。これも静と動のダイナミズムが素晴しい曲。ブルージーでグランジ的だとすら言って良いのではないか。

中森明菜「異邦人」。曲は古いのだが録音は割と最近のはずだ。しかしアレンジは結構オリジナルに近い。こういう曲が昔はあったのだと思うと、明らかに最近のポップスはバリエーションの幅を失っていると感じる。が、こう感じる理由は実際に最近のポップスが画一化したからというわけではないだろう。むしろ最近のポップスのほうがジャンルの幅自体はポストモダン的かつ自己言及的に拡大しているのは明らかだ。実際には、昔のほうが高級音楽と通俗音楽の境目がはっきりしていなかったからそう感じられるのだろうと思われる。クラシカルな作法で作られた通俗音楽の領域に、ロックやポップスが少しずつ混じっていく70年代や80年代の歌謡曲は、今聞くと非常にミクスチャー的で刺激的だ。94年の「夜桜お七」はその流れの一つの精華と言えるのではないか。クラシックとロックの融合、ジャズとロックの融合、というのは初期のプログレッシブロックのコンセプトにあったものと同じであることだし、宮台がプログレリスナーがアイドル歌謡リスナーへと転向して行った、などと語るのも不自然な主張ではないと感じる。

私もプログレッシブロックは好きだが、プログレとは要するに何でもありの音楽であって、プログレとはいったい何か、という論争が、全く決着を見ないことはよくある。この事情はラノベとはいったい何か、文学とはいったい何か、音楽とはいったい何か、といった一連の定義論争が決着しないのと非常に似通っているのだが、特にプログレにおいてはその過度の総合性が論争の困難さの根本原因である。プログレは何でもかんでも融合させようとしてしまうのだが、そこに融合のための媒介物を欠いていることが多い。個々の材料は大衆的な音楽から集められているにも関わらず、純音楽的な実践をしているという自意識がプログレ者達の内面には存在していて、そうであるがゆえにプログレは極めて滑稽なのだが、プログレとは対照的に個々の材料の媒介物を備えた音楽こそは歌姫音楽であり、つまりアイドル歌謡であろう。

上記の裏づけというわけではないが(裏づけにするにはサンプルとして弱すぎる)、こういう動画も上げられている。