読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

六月十二日、六月十三日 押見修造『惡の華』六巻を読んだけど感動した。個人的なサブカル聖典リストに加えたい。

六月十二日。雨。昼:から揚げ定食。
六月十三日。くもり。昼:コンビニのおにぎり。今日は非番だったので近所の本屋で本を色々と買った。特に今日はマル激の神保哲生が翻訳をしたポール・ロバーツの『食の終焉』を買って読み始めたが、非常に面白い。

本を買ってから公園に行ってコンビニのおにぎりを食いながら本を読む。平日の昼間だというのに小学生が野球とかをしていて、ボールが飛んできて危ないので場所を移動する。すると今度は幼児をつれたママ達の会合が目の前で始まり、居心地が悪いので結局部屋に退散した。公園には小学生が一杯居たが、この辺の小学生は学校帰りに公園で遊んでいくのだろうか。

あと、本屋では押見修造惡の華』の六巻を買う。

惡の華(6) (講談社コミックス)

惡の華(6) (講談社コミックス)

惡の華』は本当に素晴しいマンガ。『ユウタイノヴァ』とかも結構好きではあったけれども、ああいうのを書いていた押見修造がこんなに良いマンガ描くとは思っていなかった。一巻だけ試しに買って、それで性が超越系へのトリガーになっているところに押見的限界を見ていたのだが、しかし二巻以降の展開は性的な枠を超えた領域に突入している。六巻までの展開を踏まえてもう一度一巻を読み直すと、既に<山>という壁がはっきりと「クソムシ」と「向こう側」を隔てるものとして意識的に描かれている。実際に山に囲まれた街で中学生まで育った人間としては、春日君の抱く鬱屈が自分のことのように理解できる。ちなみに<山>という象徴は、さりげなくだが石川博品の『ネルリ』一巻にも出てくる。以下の一節は妙に田舎出身の私の心を打ち、読みながら付箋を貼っておいた箇所である。

 故郷の村を抱く山々は「ここから先には行かなくていい。ずっとそこにいればいい」と僕の目を優しく覆ってくれていた。(『耳刈ネルリ後御入学万歳万歳万々歳』38ページ)

惡の華』に出てくる<山>とは、岩手県出身石川博品、群馬県出身の押見修造と同じく、山に切り取られた田舎に生まれ育った私は断言するが、上記に引用した「山々」と同じものである。面白いのは、ラノベである『ネルリ』が<山>の「向こう側」で起こることを描いた話であるのに対し、マンガである『惡の華』は、<山>のこちら側を描いた話であるということだ。これは『ネルリ』と『惡の華』に局所的に見る事のできる差異ではないと私は考えている。つまり、ラノベとマンガという、媒体の違いに由来する差異だという暴論を吐くことも不可能ではないと考えている。現在のところ、ラノベに「こちら側」を描く事は不可能だと思われる。正確には、「こちら側」を描写すること自体は可能だが、いくつかの隠蔽とともにでなければ不可能だ。というか、エンタメ小説というものがそもそも「こちら側」を隠蔽なしに描く事に適していない。これは、文字だけでは商業的なハードルを乗り越えるのがより難しいからではないかと考えている。つまりマンガは視覚の効果を使う事によって、例えば萌え絵の得意なマンガ家が、萌え萌えな美少女を絵面だけでも登場させる事によって、小説においては読者の願望水準に満たない内容の話を展開させる、というようなことが可能になるからではないだろうかと考えている。小説において、マンガにおける視覚効果のようなものの機能を果たす要素はなんだろうかと考えた場合、それはジャンル小説的な形式であろうという推測は、先日の日記でも書いた。

ラノベが「こちら側」を描けないという問題は、例えば最近完結した『東雲侑子』シリーズにも見出せる。作者である森橋ビンゴが最終巻のあとがきではっきりと述べている通り、(以下軽ネタバレ注意)

 そういう意味で、(引用者註:恋愛に関しては)人並み以下の、男の方にあれこれ説明されなくては何もできなかった少女が、ばっちり普通の女の子になりました、というのがこの「東雲侑子」を冠したシリーズの顛末なのである。
 作家として背伸びもせず、普通の人に普通に受け入れられそうな話を普通に書き、普通に恋愛をして、時には嫉妬したり、時には寂しがったり、時には悪戯っぽく、時にはしおらしく、みたいな、そんな女の子になったという事だ。東雲侑子は。
 そしてそんな女の子になってしまった東雲侑子は、きっともうライトノベルという枠組の中ではヒロインたり得ない。(『東雲侑子はすべての小説をあいしつづける』282ページ、太字強調は引用者による)

ということなのである。要するに普通の少女はライトノベルにおいて描かれるに値しないということだ。普通の少女は、ライトノベルの形式に違反するということなのだ。このことは、もっと濃度を薄めればエンタメ小説一般に妥当する法則を導き出せるのではないかと思う。

あと、『惡の華』が素晴しいのは親も学校も国家権力も、みんながそろって春日君と仲村さんの超越的な聖域を脅かそうとしてくるところだ。それどころが、佐伯さんという「恋人」ですら彼らを内在化させようとしてくる。特に佐伯さんの「母的」(などという安易な批評用語を使って恐縮だが)な暴力性は、『ネルリ』の「山々」が「ここから先には行かなくていい。ずっとそこにいればいい」と語りかけてくるのと極めて近いと思う。こうして世界中が敵になっていく過程の描写は本当に素晴しい。春日君と仲村さんが、「クソムシ」をバカにしつつもほかならぬ自分もやっぱり「クソムシ」つまり内在系であることに自覚的であり、そのことに涙をすら流す点が六巻におけるハイライトであり最も感動的な場面だ。

しかし、こうして考えてみると、絵という、ある程度物語自体からは自立的に読者の願望を充足させることのできる外部的な武器を持つマンガという媒体は、おそらく(純文学であれエンタメであれ)小説という形式の一歩も二歩も先を既に行っていてもおかしくないと思う。しかし、その点で言えばライトノベルだって絵を持っているので、これもまたラノベの可能性を広げる要素として評価可能かもしれないし、やっぱりそこまで評価することは不可能かもしれない。絵と文章の関連性の問題ゆえに。