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hkmaroのブログ

読書の感想など

六月九日、六月十日 ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』読む

六月九日。昼:新所沢オールウェイズのサービスランチ。

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

この本は面白いんだけど、あまりにも俺TUEEEし過ぎていて、自慢話ばっかり読まされているような気になってくる。自分が金持ちなのをやたら自慢してくるのもウザいし、サンプルが自作品ばかりというのもウザいし、そのサンプルも作者が自分で言うほど面白くない。サンプルが面白くないというのは致命的で、つまり作者が自分の手法を実証できていないということなのだが、まあそれは言語や社会や時代の違いもあるから仕方がないのかもしれない。が、売れる本=良い本、というあまりに素朴な立場は、良い本=ずっと読み継がれる、という著者の基本的な前提に照らした場合、ベストセラーが一瞬だけ大量に市場に出回って十年経ったらブックオフで105円になっていることがザラである日本においては、必ずしも正当ではない、というよりも正当ではないことの方が多いくらいかもしれない。日本では十年前のベストセラーなんか読んでいたらもはや反時代的である。そして、こういうブックオフ105円問題的事情が本当にアメリカにおいては存在しないのかどうかについては大いに疑問である。クーンツが言うように、クーンツの小説は本当にずっと読まれ続けるであろうか。ディケンズの小説のように、100年単位の時間が経っても埋もれないのだろうか。本当に良い本は売れる本にしかないのだとしたら、ではなぜ売れてない本のほうが売れる本よりも読者の心を癒したり高揚させたりすることがあるのか。私は、このクーンツの本は、いかにバカ向けの小説を書けるようになるかについて指導しただけの本だと思う。だからといって本書の価値が無いと述べたいわけではない。むしろ、このまま文化不在のネオリベ的でリバタリアニズム的な傾向が社会を覆っていく以上、クーンツ的な商業合理的な所作を身に着けることは、誰にとっても非常に重要だ。そして、この商業合理性がかなり明白な形で提示されているライトノベルというジャンルは、非常に可能性に満ちていると感じる。身もふたもない言い方をすれば、ラノベとは、処女の美少女が出てきて主人公が美少女とイチャイチャしてればそれなりのものになるのであって、そういう形式のゆるさが裏返せばそれさえ守ってればなんでもOKという可能性に転じる。にっかつロマンポルノみたいなものだ。あるいはエロ小説で濡れ場さえ書くべきところに書いておけば何書いてもOKだった、とかいう噂を聞くことがあるように、形式に縛られたジャンル小説とは逆に大きな可能性を持ちうる。特にライトノベルは、処女・美少女・イチャイチャの三拍子がそろってれば学園だろうがファンタジーだろうがSFだろうが何だろうが基本的にOKなのだ。たとえば山岳ベースで赤軍派の生き残りに戦闘訓練を受けて育った共産主義的戦闘マシーンの主人公が、悪逆の限りを尽くす資本家どもに天誅を加えるラノベというものも、ラノベの形式さえしっかり守っていればありうる。

夜はももクロについて語り合う会を開く。当日ももクロのライブが東武動物公園でやっていたので、その帰りがけにやってくる人にあわせ、場所は北千住になる。大雨で、電車が遅れたり、居酒屋が閉まってたりする。北千住の久助なる居酒屋に入る。19時まで生ビール250円。

ももクロについて語り合う会とは、最近、アイドルになんかまったく興味を持っていなかったタイプのサブカル人間が、(アラサーを迎えて)突如ももクロをはじめとするアイドルにはまる、という現象にいくつも出会った私が、その謎を解くためにももクロファンを呼んで話を聞こうと開いた会である。念のため話を録音していたのだが、電池がなくなって録音をやめたあとに、みんなの酔いが回ってきたのか、もっとも面白い話を聞けた。

その話を私なりに都合よく捻じ曲げて再構成するならば、アイドルにはB級期とA級期があり、B級期には若手の新しい才能を持ったクリエイター達を起用することが多く、業界を見渡してもかなり先鋭的な表現が集約しやすい上、売れ出してA級期に至ってもその先鋭性は残るし、またアイドルは(純粋に歌や踊りを楽しむだけでなくメンバー間の人間関係などの舞台裏を楽しんだりと)多様な楽しみ方が可能で、事実売れてくると客層にもオタ、ヤンキー、女子小中学生、カップル、など多様性が生まれる。ももクロもこの記事で指摘されている通り、プロレス的な見方が可能である。

話を聞けたももクロファンが言うには、彼本人は十代二十代のもっと若いころにももクロがいたとしても絶対にバカにしていただろう、とのことである。なぜ三十歳前後になってアイドルにはまることが可能になるのかというと、ひとつには「若さへの憧れ」があり、ひとつにはこのプロレス性があったからである。プロレス性とアラサーの結びつきについては、酔っていたこともあって、どういう話だったかあまり覚えていない。

しかし一つ言える事は、アイドルというシンボルを中心として、アイドルのプロジェクトには様々なものが集まるということである。カネはもちろんのこと、作詞家や作曲家やビジュアルコンセプトなどの才能、それらのコラボ、また人間関係裏話や、プロレス的仕掛け、細かいパロディ&オマージュなど、色々なものが集まっているがゆえに客もいろんな人が集まるし、客はそれぞれ自分が見たいものをアイドルに見出す。特にオタクにアピールするプロレスネタなどはアイドルというシンボルの強力な吸引力のもとで可能になっていると思われる。

アイドルもラノベと同様に、ネオリベ的な世界で文化的なものが生き延びるに当たってきわめてプラグマティックに利用可能なツールの一つだと言えそうだ。そもそも、美大などで専門教育を受けながら芸術活動専門のアーティストになれなかった役者や音楽家にとって、テレビ関係の仕事とは、食い扶持と芸術的自己活動のための資金を稼ぐ場所であっただろう。大衆と意識が一致している真性エンターテイナーの描くもの以外のところに、芸術的実践の真の価値を認める立場をとるならば、なおさらいっそう芸術家たちは今の時代はエンターテイナーの手法を盗まねばならないのだろうと思う。

六月十日。昼:コンビ二のおにぎりとパン。ブックオフで本を買う。