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hkmaroのブログ

読書の感想など

六月六日 ギョーカイについてのメモ6

六月六日。雨のち曇り。涼しい。昼:てんやの豚天丼。豚肉のてんぷらなるものがこの世に存在することをはじめて知った。ねぎマヨとり天丼が食いたかったのに、とり天丼は豚天丼に変わったのだ、と店員に告げられる。豚のてんぷらを食ってみたが、なんというか、駄菓子のような味。ビックカツをおかずにごはんを食っているような気持ちになる。

ここ数日のギョーカイについての考察から、象徴化というものがギョーカイ的な悪しきロマン主義の根本原因であることがわかったので、今後はこの象徴化をいかに廃棄してゆくかが問題となるのだが、とりうる方策として二つ考えられる。一つ目が、対抗的に象徴を作り出し、それによって象徴の共同体を破壊すること。二つ目が、はじめから象徴に依存しない生活を実践して拡大してゆくこと。この二つの方策は、資本主義との戦いという文脈におきなおせば、前者は、資本をのっとることによって資本制を破壊すること、後者は、共産制を拡大させることにより資本制を破壊すること、というように表現できるだろう。後者の道が困難であることは、共産制の失敗が現代の象徴世界をイメージとして支配している以上、あきらかである。ということは、いずれにせよ人間は、資本によって資本を倒さねばならない。資本自身が自壊するのでなければ、人は資本によって資本主義が成り立つ基盤そのものを攻撃するしかないのだ。そして、そのような革命のありかたは、傍目にはあたかも資本が自壊したかのように見えるであろう。

マルクスの時代から、プロレタリア独裁という言葉が言われていた。これは、資本主義の世の中はどんなキレイゴトぶった建前も所詮は階級闘争に過ぎず、パイの奪い合いであるから、資本主義を打倒するには、「共産主義者」という階級を作り出して階級闘争を素朴に戦うのではなく、まず方法的に革命的プロレタリアートが階級闘争を勝ち抜いてプロレタリアによる独裁体制を敷き、それによってあらゆる階級闘争をも破壊することにより、くだらんパイの奪い合いのなくなった革命後の共産主義の時代を実現させるべきだ、という説だと理解している。つまり、階級闘争により階級闘争を破壊しようという発想なのだと理解している。これは考えようによっては資本主義の世の中を勝ち抜くことによって資本主義そのものをぶっ壊す、という説であって、つまり昔から反資本主義革命の方法としては一つしかなかったのではないだろうか。つまり、革命家とはまずもってホリエモンでなくてはならないのだ。当然、単なるホリエモンではだめで、革命的ホリエモンは、莫大なカネを握ったら、そのカネを市場の予測とはまるで逆のことに使って世の経済を混乱させたり、アナキストにそのカネを全額渡したりして、世界を混沌の渦に巻き込まねばならない。カネというものが無価値になるような行動をとらねばならない。これに倣えば、ギョーカイを破壊せしめんとするものは、自身ギョーカイ人でなければならないということになる。

しかし、私自身の感覚から言うと、楽しそうなのはむしろ資本主義とは無縁のコミューンを作って地域通貨とかで共産主義的実践を地味にやる方向性だ。理念的にはむしろこっちのほうが正道なのだが、しかし革命を起こすには何よりも数の力が必要だ。地味な実践には数が伴わないのだ。もちろん、私の人生においてどうもギョーカイ内階級闘争を勝ち抜くどころか、ギョーカイ内に一定の地歩を築くことすら不可能であることはかなり明白になってきたのだが、その前に最後にちょっと頑張ってみて、それから地味な実践に移っていけばよいのではないかと最近思っている。