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hkmaroのブログ

読書の感想など

六月五日 ギョーカイについてのメモ5

六月五日。昼:新所沢のエリゼというパン屋のパン。店内にはなぜか東国原知事の写真が貼ってある。きっと来店したのだろうが、どういうきっかけだろう。

ギョーカイ人の特徴は、クリエイトする行為に対してプロジェクトとしてカネをかける権利を持つと同時に文化に影響を及ぼしうるプレイヤーとして振舞えることにあって、そのためには自己を象徴化させる必要があるのだが、では具体的にどのような現象が象徴化に対応するのであろうか。おそらくは文字通りの意味で、文章に名前を記載されたり、顔がテレビに映ったり、ラジオなどで名前が登場したり、ということが対応するだろう。象徴化、すなわちシンボルになるということは素朴にそういうことを意味するであろう。象徴化した人の名前は、人の口に乗りやすいということだ。あるいは人の口にのるからこそ象徴化しているといえるのだ。だが、これだけだとギョーカイ人の中でも業界関係者については説明できていないことになる。しかしながら業界関係者は象徴化したクリエイターたちに影響を与えることができる時点で象徴たちと同次元にある。クリエイターたちに同格の存在として認知されている以上、業界関係者は象徴の共同体に組み込まれているのである。

そうだとすると、ギョーカイ的な象徴への対抗運動として、草の根から象徴を産出していく方法が考えられる。つまり、非ギョーカイ的なコミュニティにおいてある人を象徴化すると決め、そのコミュニティ内部で何度も言及するのだ。コミュニティ内に出版物があるならその中に名前を載せ写真を載せ、会話においてはいつも話題にし、コミュニティ内部に限らず外部へも積極的に広げていく。このような自覚的な象徴化は、自覚的である分効率的に象徴化作業を可能にするだろうが、しかし象徴化作業を継続させるためのコミュニティの情熱をどこで調達してくるかが問題になるだろうと思われる。反ギョーカイ、ということが一つの情熱的動機としてあってもおかしくはないが、それをコミュニティの成員すべてに認知させることは難しい。また、具体的な方法としては、ギョーカイにおける宣伝活動とほとんど変わらないのではないか、という疑問も否定しきれない。それに、おそらくプチギョーカイを作るインディーズ的な活動においては意識的な象徴化は既に、しかも情熱を持って行われているだろうと考えられる。