hkmaroのブログ

読書の感想など

六月三日、六月四日 ギョーカイについてのメモ4

六月三日。昼:コンビニのおにぎりとパン。仕事帰りにM岡さんに連絡をとり、シャノアールでコーヒーをおごってもらう。系列店のあゆみブックスで五千円以上本を買うとコーヒータダ券がもらえるのだという。そののち、M岡さんの部屋に行って酒を飲む。今話題の『ネットと愛国』をかりる。飲みながら在特会の動画をみる。楽しい。

六月四日。昼:天丼。暑い。仕事がえりに早稲田通りを歩いていると、六大学野球で早稲田が勝ったとかで行列ができている。警官がかりだされて、一般の歩行者や車の横断よりも行列のほうが優先されている。まあ、野球部が行列を作って一般市民の交通を妨害するのは百歩譲ってOKとしよう。そういう文化があるのだとしよう。しかし、野球部の後ろをついてくるクズどもはなんだろう。自分が野球を頑張ったわけでもないのに暴れたり叫んだりしながら公共の交通を妨害する人間のクズどもに、警官の保護は必要ない。あいつらは車に轢かれるべきだ。文化もなにも関係なく、ただ祭りに便乗して騒いでいるだけ。死ね。

ギョーカイの中で、文化的影響力を行使できるプレイヤーとなるということは、つまり自己を象徴化するということを意味する。ギョーカイとは諸象徴が相互作用を起こす場である。平たく言えば、ギョーカイ人(業界関係者、クリエイターなど)どうしの華やかな交流である。賎民である非ギョーカイ人はこの交流から疎外されている。そして、だからこそその疎外された生活のなかで象徴は強烈に作用し、星座の中に埋め込まれたクリエイター達の相互関係を、つまり諸象徴の相互関係を内面化する。我々賎民はクリエイターという名の星座を意識に映すガラス玉のようなものだ。この星座によってガラス玉を大いににごらされたのが典型的な俗物の姿である。それに対して星座を単純にそのまま映し出してしまうのが透明なガラス玉である。自己を象徴化するということは、『啓蒙の弁証法』の用語に直せば、自己を神話化するということだ。神話が既に啓蒙であり、啓蒙は神話化するのであるが、しかし私はこの意味での啓蒙には関心がない。象徴は外部であり、超越的である。アイドルの生写真が何故ありがたいのか。アイドルの固有名詞は象徴化する。象徴化した固有名詞はこの世ならざる力を得る。そのような、この世ならざる力に弱いのが蒙昧な人間である。だからこそ、神話が既に啓蒙であるという命題が人を驚かせるのであるが、しかし私としては神話=象徴の、啓蒙的側面よりも、人を神話にしがみつかせるような、魔術的な側面に注目したい。

また、これとはやや別の問題ではあるが、ギョーカイにはなぜギョーカイ的規範が存在するのか。ギョーカイ的規範はどこから生み出されてくるのか。制度から、だとか、下部構造から、だとかいう説明は説明になっていない。なぜそのような制度が、あるいはなぜそのような下部構造が生み出されるのか、ということが私の考えたいことだ。このギョーカイ的規範がギョーカイの形態の基本をなし、その仕組みの上にギョーカイ人同士の交流が、つまり諸象徴の相互作用が起こる。ギョーカイ人たちが、自らが象徴であることに自意識を過剰に働かせるからではないだろうか。自己の象徴を大きくはみ出すような象徴の創造や、あるいは諸象徴の相互作用可能な枠内に自己の象徴を押しとどめる創造しか、象徴化したギョーカイ人には許されないからではないか。象徴の範囲をはみ出せば、神話と魔術を喪失してしまうのだ。

ギョーカイの資本力を利用する為の最後のあがきとしてのライトノベルライトノベルの作詩術を身に着ければ誰でも作家になることができるということがもし証明できたら、ライトノベルは極めて有用な道具となりうる。このことは私にとってライトノベルが最も親しみやすいというだけで、ケータイ小説や同人マンガなどでも同じようなことは言えるだろう。その際、その作詩術を会得するのがどのくらい簡単であるかが重要な問題となる。全く簡単ではないという可能性も大いにあるのだ。その場合、ライトノベルは手段として断念せねばならないだろう。