hkmaroのブログ

読書の感想など

六月二日 ギョーカイについてのメモ3

六月二日。一年以上ぶりくらいにアキバに行く。昼飯は以前古本市場が入っていたビルの海鮮居酒屋のランチ食う。景観とか歩行者の服装とか、変わったものもたくさんあるけれど、やっぱりアキバは臭く、汚く、体中にフケをまとったキモオタは普通に接触してくるし、同人誌の包装はヌルヌルしてるし、あやしいPCパーツ屋はなぜか店頭で靴下売ってたりするし、色々と変わらない部分も大きく、少し安心した。メイドカフェは最近駅近くに立地しているらしい。昔は駅から結構歩くとこにポツポツあった印象だ。まんだらけ庵野秀明が昔作ったという逆シャアの同人誌を、ボッタクリ価格覚悟で探したのだがない。ケーブックスにもない。ケーブックスは、少し驚いたのだが、昔ラオックスのコンピューター館だったビルに入っていた。隔世の感あり。アキバブックオフで数冊本を買い、中野にも行った。中野まんだらけにもない。あの本は普通に店に置いてあるような本ではないのだろう。ヤフオクには三万五千円とかいうべらぼうな価格で出品されていて買う気が起きない。中野では同人誌以外の本も見てみたが何も買わず立ち去る。家に帰って晩飯はモスバーガーを食う。モスバーガー近くのブックオフに入る。漫画や本をたくさん買う。最近買いすぎで金と置き場所がない。

文化現象において、ある一定の影響力を持つ主体として振舞うには、ギョーカイにもぐりこむか、さもなくば草の根において次期のギョーカイに商品として取り上げられるようなクリエイターとならねばならないと昨日書いた。しかし、ここで問題となるのは各々の時期の具体的な長さであろう。草の根で活動するのはいいが、それが二十年続くことは極めて稀である。それゆえ、後者の選択肢はプラグマティックな変革のための戦略としては斥けられねばならない。より正確には、ギョーカイにもぐりこむか、あるいは自らプチギョーカイをつくり、それを大きなギョーカイと接合させる、というプランである。当然、どちらの方策も運や才能やなどの様々な要素が大きく関係してくる。ゆえに、たとえば私のように運も才能もない人間が、文化現象における一定の影響力を持つ主体となるには、それ以外の方法が用いられれねばならない。その方法とは、ギョーカイとは無縁なままで常に草の根でクリエイトし続ける、という行為に必然的になるだろう。文化はカネになるが、しかし文化にとってカネは必要ない。商売人は文化を利用しようとするが、文化にとって商売は本質的ではない。文化は伝播しさえすればよい。その意味で、フリーゲームという領域は、おそらくそれに触れたことがない人間にとってみれば不思議に見えるだろうが、まったく本質的に文化的だと私には思われる。フリーゲームはフリーなので、基本的にカネにはならない。有名なフリーゲームクリエイターが、サントラなどを販売することによってマネタイズしようと試みたこともあったらしいが、彼は今その方向性を挫折して、小説の新人賞を受賞して作家になった。そうでありながら、フリーゲーム作家が制作に費やす時間と情熱は余人の想像を超えている。一本のゲームを作るのに三年を費やすなどという話はザラであり、五年、六年経ってもまだ完結しない、というゲームもいくつかある。フリーゲーム作家の多くが一人で作業を行っているか、多くとも四、五人規模で制作を行っていることを考えると、一本のゲームを作るために何千時間、何万時間という気の遠くなるような時間が捧げられているのだ。当然その努力に対しては正当な評価がなされることが多い。無料であることも手伝って、フリーゲームは何十万という人々のPCへとダウンロードされる。もちろんその内の何人が最後までクリアしたのか、という問題はあるにせよ、売れない作家が数千人規模の客しかつかまないのに比べたら、文字通り桁違いの影響力を持っていると推測してもそんなに間違いではないだろう。数に依存しない実質の影響力についても、ネット上での、売れない作家の作品への言及と、数十万ダウンロード規模のフリーゲームへの言及を比べたら、圧倒的に後者のほうが文化的影響力を持っていると断定しても差し支えない。比較する規模がそもそも違う、という反論がありえるかもしれないが、ここで重要なのは、数千人規模の読者しか持たない本も、それが出版されるに当たって沢山のカネが動いているのに対し、フリーゲームでは、作者の元にほとんど一円も入ってこないということである。広告収入などが設定されていれば別だが、それにしたって数千部の本を一冊出版したほうが収入は大きいのではないか。

フリーゲームを一例として挙げたが、他にもこのような純粋に草の根的であるにも関わらず大きな文化的影響力を有しているクリエイション領域を考えることはできる。たとえばSSである。他にオンラインマンガもこれに含めてよいかもしれない。ケータイ小説やオンライン小説は微妙だ。なぜならランキング一位となった作品には、商業出版される筋道が最近かなり明白になってきたからであり、カネが関わってきてしまうと、「出版社から声がかかりそうな小説」を作家達が指向してしまう可能性を否定しきれないからだ。そうなるとギョーカイ的規範を小説が内面化してしまう。そのような草の根文化は、草の根文化としては死んだも同然だ(とはいえ、そのことによってギョーカイに潜り込むことができるのであれば、戦略として間違っていないとは言える)。

ちなみに、私は今はライトノベルのレビューを主な草の根活動の主題としているが、将来的にはフリーゲーム(と文学)の分野へと活動の場を移していきたいと考えている。自分でゲームを作るのか、それともレビューするにとどまるのかはわからないが、ゲームという形式それ自体が強烈にプレイヤーを引き付けながら、そこに含まれる表現内容が商業的規範を逸脱して極めて自由で知的であるフリーゲームに、あらゆるサブカル分野を見渡してみても最も大きな可能性を認めるからだ。ギョーカイ的規範を破壊する最も大きな可能性が、フリーゲームにはある。そのとき作家という名のロマンは消え去り、サブカル領域における創作は野蛮を脱して知的に洗練され高度になってゆくだろう。