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読書の感想など

五月三十一日 ギョーカイについてのメモ

五月三十一日。晴れ。五月最後の日。暑い。昼:チャーハン。

ギョーカイとはなんなのであろうか。クリエイションとプロジェクトは、どのようにしてギョーカイにおいて一体化しているのか。商売として大変優秀な国民的エンタメプロジェクトが、しばしばクリエイティビティに欠けていると感じられるのはどうしてなのか。はたまた、商売としては全く赤点なのに、クリエイティビティにおいては本邦初とも言える純度を持つと思われる「商品」があるのはなぜなのか。あるいは、そもそも金銭の授受をともなわない純粋クリエイションの領域にプロジェクト化して成功するような作品があるのはなぜなのか。

ギョーカイとはクリエイターにとって森のようなものである。森には果実がなっているが、しかしクリエイターから働きかけて果実を育てることはできない。森は畑ではないからだ。また、森には危険な動物もたくさん生息している。弱肉強食の競争のなかで食われてしまう人もいるであろうし、その恐ろしさから、ギョーカイの森から逃げ出してしまうクリエイターもいるだろう。森に入ること自体は誰でもできるが、しかし果実を手に入れないと本当の意味で森に足を踏み入れたことにはならない。

ギョーカイの森は最初一つであった。高くそびえる木々に豊富になる果実を、クリエイターたちは楽しんでいた。森の周縁や外部から、その高いクリエイターたちの居場所を眺めるのは非クリエイターの一般人たちであった。この段階において、クリエイションとプロジェクトは同じものであった。事実上クリエイトする場がプロジェクトにおいてしかありえなかったのだ。クリエイターとはすなわち皆がプロ作家であった。

しかし、森の周縁や外部にいた一般人達がギョーカイやクリエイターたちを真似してクリエイト行為をし始めた。これらはプロジェクトとして行われるものもあれば、純粋にクリエイションとして行われるものもあったが、プロジェクトとして行われるものはやがて独自の森を形成するようになったし、その森がギョーカイの森と接合してあらたなギョーカイの形態を生み出した。一方純粋クリエイションの領域においては、森は生まれず、果実は実らなかった。森の生えないクリエイションを、模倣しようとする人も少ない。しかし、純粋クリエイションは高い木まで果実をとりにいかないで済む分、気楽に行えたし、とことんやろうと思うものにはむしろわずらわしいギョーカイの森で迷子になりかけながらクリエイトするよりも、クリエイトするには適した環境だと言えた。

なぜか文化は、その始まりにおいてギョーカイである必要がある。あるいは前ギョーカイ的な形態として国家的である場合もある。文化がギョーカイや国策になる以前には、むしろ草の根的な伝播が必要であり、それにより国民の意識のなかにその文化が文化として認められる必要がある。文化は、草の根、ギョーカイ、草の根、ギョーカイ、というサイクルをぐるぐると回っているかのようである。たとえば大衆音楽について言えば、今は明らかに草の根の時代である。良い音楽は全てアマチュア発で、ギョーカイ発の音楽など糞しかないし、いわんや国策音楽をやである。そのうちアマチュア発の良音楽文化が、つまり「インディーズ文化」が隆盛したとき、国策が新たな利権獲得のため奔走するであろう。ビジュアル系がインディーズ文化であることは言うまでもないと思うが、そのビジュアル系を海外に向けてプッシュするナントカ庁は現に存在する。草の根に注目してそれを取り込んで資本を蓄積したギョーカイは、その資本力でエンタメ超大作を作り上げる。たとえば九十年代までの音楽業界はギョーカイ期であったように見える。そのギョーカイ期の前には、フォーク、ロック、パンクなどがアンダーグラウンドで作り上げてきた文化があった。八十年代、九十年代のロック・ポップスとは、これらの短絡化の上に成り立っている。マンガも今は草の根期かもしれない。ネット上のマンガの面白さと書店で買ったマンガの面白さを比べてみればわかる。(コンピューター)ゲームは明らかに草の根期である。九十年代のギョーカイにおけるゲーム黄金期に少年時代をすごした者達が、技術的には資本に全く劣っていながらも作品としてはギョーカイ発のゲームに比して圧倒的に優れた名作を次々と同時多発的に生み出している現在、ゲームは数多ある文化の中でもっとも高度に草の根化している。アマチュア発のゲームが技術力に必ずしも依存しないという意味でも本質的に草の根的だ。

このように、現代において最も純粋にアーティスティックにクリエイティブに活動している在野のクリエイター達は、しかしながら根本的に一世代前のギョーカイ発文化に依存しているということを認めねばならない。数多あるビジュアル系インディーズバンドは、音楽ギョーカイ黄金期のビジュアル系バンド(LUNASEA、ジャンヌダルク、ディルアングレイなどなど)に影響を受けている。草の根マンガ家は微妙だが、草の根ゲーム作家は明らかに九十年代のSFC黄金期のゲームに強い影響を受けている。ギョーカイなくしてクリエイトもないのである。しかし、逆に草の根なくしてギョーカイもない。この相互関係を直視し、自らが非ギョーカイ人だからこそなおさら一層ギョーカイの毒に芯まで浸っていることを認識した上で、どうやったらギョーカイ的なクリエイター身分制を破砕できるのかを考えねばならない。