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hkmaroのブログ

読書の感想など

五月二十七日

五月二十七日。晴れ。午前十時に起きる。午前中はラノベブログに『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』のレビューを書く。書いてたら二時くらいまでかかってしまう。
三時頃外出。小手指へチャリを走らす。らーめん花月のカレージャックなるラーメン食う。スープカレーに麺が入っている。さらにチャリで行きほんだらけへ。大量に色々とまた買ってしまう。ほんだらけ所沢市内では東所沢のブックオフプラスと並ぶ品揃えなのではないか。ものすごい文化の香り。古いマンガがたくさんある。最近探している筒井康隆の本も棚一列分くらいはある。うれしい。クイックジャパンのバックナンバーも何冊かある。立ち読みすると、東浩紀が書いてたり、庵野秀明欠席裁判が載ってたりする。懐かしい。でも買わず。チャリの籠がずっしりと重くなる。そのまま住宅街を適当にサイクリングして新所沢に戻る。
夕方五時半くらいに家に着き、買ってきた本眺める。『デビルマン』読む。感動する。読むのは何年かぶりだが、やはりというかなんというか『奇生獣』『ドラゴンヘッド』と共通のテーマを感じる。前者との共通性は明らかだ。人間を裁くものとしての悪魔たちと、パラサイト。人間の外側からその愚かさを描くという意味では、夏目漱石の『我輩は猫である』だとか、メルヴィルの『白鯨』などと似ているのかもしれないが、『デビルマン』『奇生獣』に明白に認められるのはエコ思想である。エコ思想などというといかにも社民な感じがするかもしれないが、レイチェル・カーソンとかチェルノブイリだとかがあったので、表現者がエコ的であるのは自然だっただろうし、それらの社会問題・環境問題的なものへの意識の高さは、冷戦構造が生きていたが故に全然観念上のお遊びではなかっただろう。年長の人に冷戦時代の話を聞くと、ソ連への旅行者が行方不明になって消息がわからなくなる、などという話はたくさんあったなどと聞く。本当かはわからないが、そういうリアリティはあったのだろう。アキバにもソ連の工作員が電子パーツを買いに来ていたとかいう回顧的な話もあるように、身近なところに「敵国」の影がチラついていたのであろう。今の我々にだって原発問題やそれに関連して出てくる国家糜爛の問題がたくさんあると思うのだが、特に我々の世代は、育ってきた時代には既に資本主義一辺倒であったので、国家を懐疑したり資本を懐疑したりだとかという基本的な所作が体に刷り込まれていないような気がする。昔の人が社会問題を考えていたのは、それが多少なりとも自分の生活の目に見えるどこかに反映していたからなのだろうが、我々の世代の人間は社会問題と自分の生活とのあいだに明確な関連がなかなか見出せない。結果、政治に無関心でもなんとなく生きていけるのでは、という振舞い方・生き方が身に染み付いてしまった。それはもうどうしようもないことだし、事実として政治が生活を脅かさないのであれば妙なイデオロギーに染まらないためにもむしろ政治に無関心でいるべきだとすら思うが、いざ原発問題みたいな、起こらないと思っていたことが起こると、我々の世代はその脆弱さを露呈させてしまうような気がなんとなくする。結果、変なイデオロギーに糾合されやすく、簡単に右だの左だのに分裂し、連帯すべきところで連帯できない。おそらく原発問題を身にひしひしと感じながら育っている今の中学生高校生は、少なくとも我々の世代よりは社会問題に敏感になるだろう。きっと親たちが地震直後は家庭内でも原発の話で毎日のごとく一席打っていたであろうから。こうして考えると、社会問題なるものが存在しないと民衆の意識は高まらないのではないかとすら思えてくる。たとえば大きな国家犯罪のあとでは、当然民衆はより国家に懐疑的になるだろう。しかし国家犯罪がどんどん後退していって目に見えなくなってくると、国家への懐疑心は忘却されてしまうだろう。大規模な国家犯罪が起こったほうがいいというわけではないが、だからといって起こらなければ民衆は愚民化していくのが自然の流れだと思われる。しかし国家への懐疑心は基本的に失ってはならないものだ。この懐疑心をどう世代間にバトンタッチしてゆくのか、という問題は、たとえばサブカルにおいてはサブカル人間の憂鬱性をどう伝えていくのか、という問題と綺麗な相似形をなす。サブカル人間の不全感は、社会そのものに向けられたものだが、社会の中でも特に国家へ向けられると、それは国家への懐疑として表れよう。ということは、サブカル人間として完成されることは、市民として完成されることをも意味しうる。問題は、サブカル人間の多くがサブカル愛好家にとどまってしまうことだ。それらサブカル人間のなりそこないは、萌え豚の呼称に倣えばサブカル豚とでも呼ぶべきものである。そして、社会を相対化して眺めることのできる完成されたサブカル人間は、『デビルマン』に登場するデビルマンであり、『奇生獣』に登場するパラサイト共生人間であろう。また、『デビルマン』と『奇生獣』と『ドラゴンヘッド』が共通して描いたのは人間の疑心暗鬼である。人間への信頼でなく、人間への懐疑で成り立つ社会である。国家や資本へは懐疑の目を向けるべきだが、人間を懐疑してはならない。人間はまず信頼されねばならないものだ。この命題は、完成されたサブカル人間にとっては自明なのである。そうしたとき、完成されたサブカル人間は一人の思想家と言っても良い。ヒトを思想家に育てるサブカル作品こそは、サブカルの古典の名に値するだろう。