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hkmaroのブログ

読書の感想など

五月二十四日 荒俣宏『0点主義 新しい知的生産の技術57』を読む

>id:hatikaduki
ではどう安いんでしょう。私のコメントの意図は、鈍感主人公が美少女に囲まれてあまつさえ複数の美少女から好意を寄せられてるのにそれに気付かない、という共通の特徴を持つラノベ的萌えラブコメの筆頭である(と私は思いますが)『はがない』が、その典型的な構図自身にツッコミを入れることで、他の凡百の萌えラブコメにも妥当するツッコミたりえていると思う、ということなのですが。
そして、そんな特殊ラノベ的な文脈を前提にしなければ成立しない「真実」の表現なんて、本当に真実なのか、という疑問があります。それは端的にこじつけなんじゃないでしょうか。それが本当に真実であるためには、登場人物たちが自然主義的に描かれる必要があるでしょうが、読めば明らかなとおり、『はがない』は自然主義の小説ではありません。つまり、ラノベ読者の現実の生活には、夜空みたいな幼馴染や、星奈みたいな許嫁や、理科みたいな天才少女はまずいません。そういうある種の荒唐無稽さはラノベに特有の性質であり、そこで作用している物語的な都合の良い展開や設定(たとえば上記の美少女たちがみんな小鷹に好意を抱いている)は、それこそ「真実」を描いた自然主義小説が打破してきたような要素のはずです。そんな「都合の良さ」にガッチリ支えられたラノベに「愛」だの「真実」だのを安易に見出す頭のユルさが、私には理解できないのです。ついでに言えば、自分個人の臆見に過ぎないことを「真実」と言い切ってしまう想像力の貧困さにも絶望します。

五月二十四日。晴れ。昼飯はコンビニのから揚げ弁当。晩飯はファミレス。
ファミレスで荒俣宏の『0点主義』を読む。

0点主義 新しい知的生産の技術57

0点主義 新しい知的生産の技術57

面白いんだけど、この本に書かれていることは荒俣宏のような非常に特殊な人間にしか当てはまらないだろう。彼は七歳のころから「0点主義」を貫いてきたのだと書いてある。そんなもん、もう大半の読者がいい年なんだから真似できるはずがない。というわけで、この本は荒俣宏の半自伝的エッセイのようなものになっていて、知的生産の技術の本としても自己啓発本としても全然使用価値がない。まあ、だからといって読む価値がない本だというわけではない。たとえばトイレで本を読むと集中力を増すのだとか書いてあって、私の実感ともピタリと当てはまり、他にも同じことを考えている人がいたんだなと感動したが、しかし便器に長時間座っているといぼ痔になるらしいから真似しないほうがいいかもしれない。
他にも面白い箇所はある。たとえば以下のくだり。

 あきらめるといえば、私が最初にあきらめたのは、「女性にモテる」ことだった。
 しかし、「モテる」ことをきっぱりとあきらめたせいで、何の迷いもなく、私は自分の好きな勉強に邁進することができたのだ。
 私のモテなさはハンパではなかった。第一、見てくれが悪い。モテるために努力する気もない。1ヵ月服は着替えないし、お風呂も入らない。歯も磨かない。おかげでにおいがすごかったらしく、人からは奇人変人とみなされた。
 が、じつはこうした傾向は7歳ぐらいからあり、その当時すでに世の中の評価を気にしたり、人によく思われようと考えたりすることは、すべてやめた節がある。これを称して「7歳で心が朽ちた」と自分では思っている。

すごい。つい先日の日記で、私は自分のオッサン化について述べ、それによって奇妙な安定感を得たのだというようなことを書いたが、私が28歳にして至った境地に、荒俣先生は7歳で到達していた。荒俣宏がいかに早熟であったかがわかるだろう。また、彼は実際に天才であったらしく、中学生のころから幻想文学を原書で読んでいた、とか、受験勉強は1週間しかしなかった、とか、大学2年の頃から翻訳家として仕事をしていた、とか、凡人を完全に置いてけぼりにするような、全く参考にならない事例ばかりが挙げられている。本書は、そうした、凡人には何らためにならないアラマタ式勉強法を読んで楽しむための本である。『帝都物語』で手に入れた金で古本を買いすぎて、逆にその金にかかる莫大な税金を払えず借金してしまった、などという話もすごい。0点主義を真似したら、こういう弊害も伴ってしまうのだ。これは万人には到底お勧めできない。我々凡人は、0点主義者に対し、表向きは賞賛しつつ嘲笑し、内心激しい嫉妬を含んだ目線を、遠くから投げかけるだけである。