hkmaroのブログ

読書の感想など

五月二十二日

五月二十二日。昼飯は松屋のネギ玉牛丼。夜はコンビニのおにぎりとスパゲティを食った。
最近サブカルチャー作品の古典というものが考えられるとするならばどういうリストができあがるだろうかということを考えている。サブカルがいまダメになっているとかつまらなくなっていると言えるとするならば、それは何故なのだろうか。サブカルが歴史性を失ったからではないか。歴史性を失うとなぜつまらなくなるのか。理由として考えられるのは、サブカルを面白くしていた有形無形の要素の重要さが、後続世代へと伝達されず、意匠だけサブカルチックな実態としてはリア充的マスカルチャーであるような作品が氾濫するようになってしまったから、という事情であろう。そうした時代では、サブカルが隆盛を極めていた80年代においてサブカルを求めていたようなサブカル人種的人格類型を持つ若者は、サブカルにより慰めを得られなくなってしまい、結果サブカル的な場やサブカル的な作品が沈静化してしまうであろう。現代ではオタクであればあるほどほかならぬオタクコミュニティ内部で疎外される。オタクを自称する人間が右へならえで東方・けいおん・まどマギにふけるからだ。あるいはシュタゲ・ピンドラ・ホワルバ2の話しかしないからだ。オタク友達に久しぶりに会ったかと思えば、「今期どのアニメ観てる?」だのという話に終始してしまい、何も観てないなどと言おうものなら会話がストップしてしまいかねない。リア充どもが「いまやってるあのドラマ観てる?」的な話で盛り上がるのと同じ機能を、今現在アニメは担ってしまっているのであるが、ドラマ的な会話を否定し、そこから抜け出し、ドラマ観てない人間を端から締め出すような閉鎖的で暴力的な会話が横行する現実を相対化することによる心の慰安を得られるのが言わばアニメなのでありサブカルなのではなかっただろうか。アニメ新世紀宣言がどういう意味を持っていたのか、あるいは持っていたと言われているのか、オタクの皮を被ったリア充だというのでもなければ、オタクたちはいつも思い出すべきだ。サブカルが歴史性を失ったことによって、サブカルがまとっていたこのような現世否定性、不全感、憂鬱性もが同時に失われたのだとは良く言われることだ。ということはサブカルが歴史性を復活させることによって得られる効能とはやはり同時にこの現世否定性、不全感、憂鬱性であり、一種の厭世主義に他ならないだろう。そしてそれによって一体サブカルがどういうものであるのか、代々歴史的にサブカル人間とはどういう人間であったのか、という認識のコアが伝達可能になるのだ。社会不適合者、という言葉がサブカル界隈で自虐的に用いられるのをよく見かけるが、実際にはこれは純粋な自虐ではない。社会に不適合であるということは、逆に言えばサブカルに適合的であるということなのであり、サブカル人間の屈折したサブカル自慢の表れ方なのである。「現世は夢、夜の夢こそまこと」というのが典型的なサブカルスピリットなのであり、ここにおいてはオタクもロックもシネフィルも大差ない。サブカル人間であるということはダメ人間であるということと同義なのであり、サブカルを極めれば極めるほどにダメ人間になってゆくのであるが、ダメ人間であるからこそ糞くだらない世の中を相対化できる。サブカルはある種の憂鬱症を癒しつつ保存する場であると同時に、この世の中は糞である、と断言できるようになるための精神的な修養をする場でもあるのだ。

実際にサブカルの古典のリストを作ろうと思って、シコシコ作ってみているのだが(アニメ、マンガ、ゲーム、ノベルなど)、非常に面白いことにサブカル作品の名作(だと私が思うもの)には「世界の命運」だとか「人生の不条理」だとか「人間の醜さ」だとかを題材にした作品が多い。言わば派手な話が多い。セカイ系とサヴァイヴ系という双子のような潮流は、ほんの一時の流行では片付けられないものだという気がする。たとえば最近読んでるバイオレンスジャックだとか、その前の話であるデビルマンは、セカイ系でもサヴァイヴ系でもないものの、世界の命運とか弱肉強食とかが描かれていてセカイ系的であると同時にサヴァイヴ系的だと言えないこともないだろう。主人公の内面的な葛藤や悩みも、サブカル的名作の条件である。セカイ系セカイ系たらしめているもの、つまりセカイ系的なるものの起源は、案外ずっと昔の作品にすでに認められるものなのかもしれない。