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hkmaroのブログ

読書の感想など

五月二十日 所沢をサイクリングした 五月二十一日

五月二十日。晴れ。昼飯はオールウェイズの弁当。サービスランチ。
昼過ぎにチャリにまたがり出かける。所沢のゼストという古本屋が気になったので行ってみることにした。国道463号線を行く。航空公園を左手に見ながら、蒸し暑い緑の中を通り抜けていく。並木と言うには背の高い並木が道路には植えてあって、その合間にカーディーラーだとかアウトドア用品店だとか飯屋だとかのいかにも郊外的で国道沿い的な店が並ぶ。でかめのブックオフを少し通り過ぎたところにゼストはあった。ドン・キホーテ所沢宮本町店裏で見た萌え萌えしい看板は見当たらず、一階に自遊空間が入っている建物の二階部分に店を構えていた。中に入ると、ゲームソフトがまずあって、その奥にエロゲーと同人誌が大量に置いてあった。AVコーナーには行かなかったが、あののれんの奥もすごそうだ。所沢市在住のオタク達のメディア・ライフはかなりの部分ゼスト所沢店の力により成立していそうだ。所沢には確かにとらのあなもなければK−BOOKSもない。メロンブックスもなければソフマップもない。しかし、所沢にはゼストがある。わざわざ電車に乗って一時間以上かけて秋葉原に行かなくとも、所沢にはゼストがあるのだ。
その後ブックオフにも寄ってみようと思ったのだが、つい緑豊かな坂道に目を奪われ、チャリでこやし臭い住宅街をうろついてみることにした。すると川に出会った。
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なんとなく川沿いにチャリを進めていくと、ますます風景は鄙びた感じになっていく。所沢にこんないい場所があるとは知らず、大層うれしい気持ちになる。川ではアヒルが泳いでいた。野生のアヒルを肉眼で見たのはもしかしたら初めてかもしれない。二匹泳いでいると思っていたら、水の中にもう一匹潜っていた。ネットで調べてみて、あれはアヒルというよりカモなのかもしれないと思ったが、どっちにしろ野生のそれを見るのは多分生まれて初めてだ。
きりのいいところで道を戻ってブックオフに行く。広い。ブックオフプラス東所沢、という店らしい。プラス、とついているのは、カードとかプラモとかのホビーも扱っているからなのだろう。本の品揃えもなかなかよく、私はここで文庫本数冊と、あとサイボーグ009の文庫版を1〜16まで各巻105円で買った。安い。帰りのチャリが重くなったが、大変うきうきして家路につくことができた。
家に帰ってからはダラダラすごし、ビッグエーで買ったカップめんを食って、眠くなってから寝た。

五月二十一日。晴れ。昼は生協のチキン南蛮定食。晩飯は吉そばの絶妙な不味さのそば。コロッケを乗せる。そばの不味さの中に一塊の希望としてのコロッケ。このコントラストを味わうために、私は吉そばを食う。そしておにぎりをオプションでつける。このおにぎりは、コンビニに売ってあるようなフィルムで海苔をつつまれたあのおにぎりが出てくるので、最初はとまどったが、もはや慣れた。喫茶店のカレーだってレトルトなのだ。コンビニおにぎりが出てきたところで驚くには足らない。商売とはそういうものなのだ。
金環日食がどうのこうのという話題で世間は盛り上がっているようだった。私が浪人していたころ、ちょうどサッカーのワールドカップの時期か何かで、受験生の中にさえ日本代表のユニフォームとかを着て盛り上がっている者がいたものであるが、こういうときこそがチャンスなのだと私は信じて疑わなかった。こうしたバカがバカ騒ぎしている間に、私は自分に必要な訓練をして自分を鍛えねばならないのだと思っていた。そのときの私は、そうした自分の行いが、受験に適合的に振舞えるように自己暗示をかけた結果なのだと思い込んでいたが、実際には私のような人間は第一志望の学校に落ちていて全然受験に適合的になれたわけではなかったし、今にして思えば明らかにリア充に対するルサンチマンに由来していたのだと思われる。今も基本的には日食がどうこうというような話題で、天文の「て」の字も解さないくせに盛り上がるようなバカどもが、大事なことをどんどん忘却しながら騒いでいるうちにこそ力を蓄えねばならない、あるいは力を蓄えるチャンスだと思っていはいるのだが、受験のころとはまたその考え方の内実は質的に変化した。なぜなら、今現在はリア充どもに対する鬱屈を抱いていないからだ。私は今リア充どもを、あるいは世間一般の小市民たちを、心の中で見下げ果てている。実際には私は単なるプロレタリアートであるし、名声も権力も金も知性も何一つ持たない、とても矮小な存在なのであるが、しかし不思議と自分以外の人間を取るに足りない小物だと確信してしまう無根拠な安心感というか自信めいたものを持っている。この自信の具体的な根拠は一切ないのだが、これがあるからこそ何とか毎日生きていけているような気がする。ニーチェが超人とか言い出したのもこういう境地に至ったからなのだろうか。自分をニーチェと比べるのはさすがに非常に僭越な感じがするが、世間的な評価軸を、自己を客観視する際に用いないようになったのが、非常に大きいように思う。人によってはこれはオッサン化、と呼ばれるような振舞い方の変化だろう。押井守も前の新書で、オヤジになって何がわるい、みたいなことを書いていたが、それに近いかもしれない。まあ、オッサンになったところで何か良いことがあるわけでもないのだが。