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hkmaroのブログ

読書の感想など

阿部和重『幼少の帝国 成熟を拒否する日本人』への一消費者からの感想というか苦情のようなもの

阿部和重は昔からその書いてる内容がネタなのかマジなのかわからないところがあって、そういうところこそがこの作家の面白い部分であり、マジに文学を書いているように見せかけて身もふたも無いロリコン物語に矮小化させたりだとか、ギャグでやってるのかと思えるようなサブカル的なネタが最終的にわが国の文学的伝統に則ったと言えなくもない問題意識めいたものとつながったりだとか、あるいはその判断不可能な不明瞭さそのものがネタなのか、それとも「文学もサブカルも大して違わない」というマジな問題提起なのか、どちらにも解釈できたし、どちらの解釈をとったとしても、彼の小説に反「文学」的な姿勢を読み取ることは不可能ではなく、そういう作家が文壇において「純文学」として迎え入れられてしまっている滑稽さそのものが強烈な皮肉として機能していた。

しかし、『シンセミア』だとか『ピストルズ』などの長編においては、もはやこの不明瞭さ自体が紋切パターン化していたように思う。言い換えれば、ネタのほうへとわかりやすい形で針が大きくふれていたように思われる。「文学」的なものへの皮肉はその割合を減らし、ただただネタがあるのみの、エンタメ小説とさほど変わらない、知的緊張という意味では全く初期の小説に劣る、ダラダラした分厚いだけの本が書かれた。

この度の本『幼少の帝国』は明らかにこの近年のエンタメ化の流れにあるもので、ノンフィクションではあるものの、文章中にさりげなくサブカルネタを挟んだりだとか、そういう作家が真面目に日本の政治のことを考えている振りをしたりだとか、という振る舞い自体が一種の阿部和重節でありネタに過ぎず、それが、かつて彼の小説が「文学」的なものへの皮肉として機能していたのと同様に、「日本文化論」的なものへの皮肉として機能するならまだしも、『アメリカの夜』のときなどに純文学に対して秀逸に行われていた擬態が、この「日本文化論」においては極めて稚拙であるがゆえに、皮肉どころかパロディにすらなっておらず、しかも「文学者」に擬態している阿部和重としては、「文学者」らしく東日本大震災という事件に自らの文学的問題意識でもって主体的にコミットする振りをせねばならず、ネタとして構想された本書の意図(あとがきにおいて本人も述べているように、「日本人の成熟拒否」というテーマは借り物でしかない)は曲げられて、出来の悪いインチキ日本文化論そのものの観を呈しており、内容空疎な学級委員長的な当たり障りのないスローガンがダラダラと繰り返されるばかりである。この出版価値がゼロに等しい本は、成熟拒否→小型化志向→世界に広がる日本の技術・職人芸→夢→震災復興という短絡的発想において、ネット右翼的自国賛美やショック・ドクトリン的なものと紙一重であり、そうした意味で私にとって阿部和重という名前の持つ意味が大きく転換した。阿部和重とは、「知的な関心や倫理的な衝迫」もなく、「たんに、何か派手に有名になりたいという根性があるだけ」の人々と同類であり、本来作家として小説を書き続ける内的必然性を持たないタレントに過ぎないのではないか(などと言ってはタレント業を営む方やそのマネージャーに失礼かもしれない)。『幼少の帝国』というタイトルが『表徴の帝国』という本のタイトルをもじったのであろうということはなんとなくわかるのだが、今まで皮肉を用いた批判精神から来ていると思っていたこうした類のパロディが、実際には「フランス現代思想」的なものの知のイメージを詐取するためだけに引っ張られているのではないかと、今更ではあるが思うようになった。「フランス現代思想」に親しんだ左翼的知識人がもっとも警戒せねばならない議論に気軽に参加してしまっているこの本は、阿部和重という「文学者」の芯のなさを明白に露呈させていると感じる。阿部和重は「文壇」においてその役目を完全に終えていると思う。もはや今後は何ら見るべきところのない本しか出さないだろうから、もう二度と買わないよ。