hkmaroのブログ

読書の感想など

五月十六日 『げんしけん』一代目を読んだ

五月十六日。晴れ。最高気温は27度らしい。暑い日。昼は弁当。夜は中華一番の300円チャーハン。

げんしけん』の一代目、すなわち1〜9巻を読む。先日のブックオフで購入したもので、すべて105円であった。

げんしけん』という物語の語られ方の変遷は、大変興味深い。初期『げんしけん』がすばらしかったのは、オタクの生態を描く、というテーマが一種の自然主義的でアンチ物語的な語られ方で語られていたからであって、過剰に物語の世界を生きているオタク自身は、何ら物語の発動しない極めて平坦な日常を生きている、ということを批評的に描いた点にあった。部員たちがアキバに繰り出す話が一巻にあるが、電車の中や街中でヤリチン的会話で盛り上がる男たちとすれ違うシーンが挿入されている。この描写は単に部員達が性から疎外されていることを描いているのではなく、「一日3個」のマンコがマジヨユーであるような、いわば物語を過剰に生きて個々の物語(マンコ)の意味が摩滅してしまうほどに過度に豊穣な世界を生きるヤリチンたちと、エロゲー的な物語の内部ではむしろヤリチンたちよりよっぽど過剰に意味的な世界を生きているにもかかわらず生活世界においては極めて無物語的で無意味な日常を生きているオタク達を対比しているのだと読み取れる。そしてオタク・ライフの無物語性はオタクの生態を社会学的にかつ自然主義的に観察することにより表現することが可能となるのだ。登場するオタク達の生態を、「よくいるオタク」として描くことが、あらゆるロマン的な意味づけから遠くにいる実社会のオタクをより正確に表現するだろう。

ところが部員達のキャラクターが「よくいるオタク」の図式に回収されなくなり、キャラたちの「キャラが立つ」ようになってきてしまうと、そこに悪しき物語が発動してしまう。春日部さんがコスプレするだのしないだの、斑目が告白するだのしないだの、というものがそれである。そして、初期『げんしけん』と堕落した後期『げんしけん』を完全に画するのは荻上の登場という要素である。彼女はオタクでありながらオタクを嫌悪する「トラウマ」を抱えていて、その「トラウマ」の解決が後期『げんしけん』の重要なテーマとなってしまう。ヒロインの「トラウマ」を解決することによって物語が動くのは、言うまでもなくエロゲー、なかんずく泣きゲーであり、初期においていかにオタクを無物語化し無意味化できるのかという試みを中心においていた本作は、このエロゲーヒロイン的なキャラの安易な導入によりオタクを物語化し有意味化してしまう。このような安易な手法は、我が中島総研の研究員である学生(がくしょう)が『黄昏色の詠使い イヴは夜明けに微笑んで』についての小論で明らかにした(この小論はここで読める)、ライトノベル的「安易さ」とそう違うわけではない。『黄昏色の詠使い』が、学生が言うようにハイ・ファンタジーの表面だけをなぞって物語の「ネタ」にしてしまったような、軽薄な行為を「安易さ」だとするならば、後期『げんしけん』において表れているのはオタクというカルチャーを「安易」に物語のネタとしてしまうことによるそれである。昨今のラノベにおいて「オタクライフ」的なものをテーマに謳いながら、全くオタク的でない美少女いっぱい夢いっぱいの語義矛盾的な「残念系日常もの」の物語がいくつか存在しているように見受けられるのだが、後期『げんしけん』はこうしたラノベの水準を全く超え出ていないのだ。

斑目の「報われぬ恋心」的な要素に、無物語的で無意味的な初期『げんしけん』的側面を依然として見出すことも可能だ、という反論がありうるかもしれない。しかしそんなことは絶対にない。なぜなら、現実社会のオタクにとって「報われぬ恋心」すらもあまりに物語的に過ぎるからであって、そんなものとオタクとは全く関係がないと言っても言い過ぎではないからだ。このようなオタク・ライフの無物語性と、アニメ・マンガ的な濃密な物語性との間に引き裂かれたオタクたちが、『涼宮ハルヒ』的な中二病系の物語を支持するということは全く自然ななりゆきであり、物語の無いオタク達の日常には主人公としてのオタク自身も存在しないからこそ、空回りする主人公願望を抱いて苦しむハルヒの姿が、あるいは自己を「文芸部員」という主人公として設定した物語を発動させてしまった長戸の姿が、オタのナイーブな心をビッシバッシと刺激したのである。そうした意味で、『涼宮ハルヒ』シリーズはそのメタラノベ的意匠から受ける印象とは全く逆に、むしろ異常なほどにオタクにとってリアルな問題意識を抱えた小説だったのであり、この地平に至るには初期『げんしけん』的なテーマを通過していなくてはありえないのだ。『ハルヒ』シリーズは、昨今の糞くだらない日本国内の糞純文学などは一瞬で通り越してドンキホーテに接続可能な極めて広い射程をもった小説である。当然その中間にはバルザックもある。初期『げんしけん』がバルザックだとするならば、後期『げんしけん』は安易な騎士道小説に過ぎない。