hkmaroのブログ

読書の感想など

五月十三日、五月十四日

五月十三日。昼はコンビニのおにぎりとパン。夜はすた丼やでミニすたカレー。
斎藤貴男の『消費税のカラクリ』を読む。良い本なのだが、要するになんなのかがよくわからない。消費税の問題点を個別に挙げていった本、という感じで、読者はきっと読後に消費税に対する憤りを一層強めはするだろうが、消費税と闘うための武器とするには今一歩足りなかったような気がする。しかしこの欠点はサマリーを作ることによって補うことができるような気がする。というわけでシコシコとサマリー作りをはじめてみたのだが、こんな作業をしたのはほとんど学生時代以来と言ってもよく、地味にえらい時間がかかる作業だと改めて感じた。めんどくさくて途中で一端やめたが、今度時間を見つけて、箇条書きでまとめてブログにアップしようと思う。夜に杉井光の新作『楽聖少女』を読む。感想は改めて別の場所に書こうと思う。『神メモ』の私が評価している色々な点はもしかしたら偶然の産物かもしれんと思った。

五月十四日。晴れ。昼はチャーハン。夜は所沢の龍の子というラーメン屋に行く。タンタン麺を食う。黒いタンタン麺ははじめて食った。マーボーライスをセットでつけたが、このマーボー豆腐は結構匂いがあって、食べたことがない感じだった。もしや本場のマーボー豆腐とはこういうもんなのかもしれんと思う。所沢のブックオフでマンガを買い込む。押見修造の『悪の華』を買って読み、面白かったのでツタヤで最新刊まで買って読んだ。外部だとか脱社会性の問題が性へと集約されているのは押見修造らしいのではあるが、実際にはこれは暴力にも結びつくはずのものである。暴力が描かれない限り押見修造はこの路線で古谷実を超えることはないのではないかと思われるのだが、とはいえ、脱社会性がマゾヒズムの完成により中和される過程を描く話なのだとしたらこれはこれで価値がある。あるいはそれによる脱社会性神話の解体を描く話なのかもしれない。仲村さんがやけに可愛くなっていくのは、春日によるマゾヒズム的枠組みに仲村さんがまんまととらわれていくからであろう。マゾヒストが、鞭を持たせる相手にサディスト的な役割をマゾヒストの台本において演じさせる点で、サディストよりもマゾヒストのほうが一層頭が良いのであり、「サディスト」的な興奮を得ている仲村さんは春日から見て相対的にバカなのである。マゾヒストの興奮は、自分が優位のつもりでいる「サディスト」が、実はマゾヒストの手の上で踊らされているに過ぎないことに気付かず、「サディスト」の役目に没頭している姿をみるところに生まれる。こうして仲村さんの「中二病」「脱社会性」は、春日のマゾヒズムの枠組みに回収され、内在化し、安定することになる。「脱社会性」なるものは消えてなくなる。はずだったのだが……というところで最新刊は終わっており、続きが気になる。『悪の華』についても機会を作って考えていることを書いてみたい。

資本主義が差異でもって駆動しているという認識はある種の業界では常識となっていることと思われるが、その差異にも二種類考えることができるのではないだろうか。一つはバロック的な差異であり、これはたとえば服屋の一点モノが利用する差異である。あるいは万人受けはしないが評論家からは高評価を得る類の難解な作風のクリエーターが利用する差異である。これらが資本主義の原理に忠実であることの証拠としては、事実としてそれが売れること、しかも尋常ならざる高値で売れることが挙げられる。マスの方向を向いていなくとも資本主義に適合的な商品というものが考えうるとするならば、それはこのような、バロキズム的な陰影でもって差異を形成していく商品であろう。バロキズム的差異の特徴としては、それが商品の表層に意匠をこらすこと挙げることができると思う。

一方でその反対にイノベーティブな差異というものを考えることができる。これは商品の性質を根本から変化させるような差異である。技術革新的な商品はすべてこちらに含まれるであろう。一般にマクロな視点において資本主義が回転していくにあたりもっぱら利用していると思われている差異はこちらの差異である。この差異は、商品の深層における差異であることが多くなると思われる。もちろんイノベーション的差異には技術革新以外の差異も含まれる。人材派遣業という「発明」などは、技術革新にはそれほど依存していないようにみえるものの、業態としては十分にイノベーティブである。イノベーション的な差異の特徴は、それが一般化することであり、マスに訴えることである。あるいはマスに訴えることのみをイノベーション的な差異の要件としておくことが、慎重な推論を可能にするであろう。

私には、上記のように、資本主義は二つの差異化の力で個物を圧迫しているように感じられる。つまり、マスをはじめから相手にしない差異と、マスにこそ訴えかける差異である。この二つの差異には質的な違いがあると感じられる。そして、たとえば、革命の理論として「資本主義を逆手にとることによって資本主義を内破させる」という方向性が挙げられることがあるけれども、それはともすれば無自覚的にバロキズム的差異を肯定しているだけという事態に陥りうるのではないかと思われる。逆に資本主義を内破させうるような力を持つのは、イノベーション的な差異を利用した革命なのではないであろうか。ラノベというマス向けの軽薄な商品による若年層の「啓蒙」を夢見ている私にとっては、そうした理論のほうが説得的に感じられるし、なにより大衆の意識を左右しているのはマスコミ的な言説なのである。マスコミのチャンネルを奪取することが不可能なのであれば、<萌え>などのイメージによってマスコミのチャンネルに依存せず流通させうるオタク的で同人的でネット的なチャンネルは、革命家にとって極めてプラグマティックに利用できる可能性を秘めたフロンティアなのではないかと思う。