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hkmaroのブログ

読書の感想など

五月十一日

五月十一日。昼飯はチキンカツ定食。胃腸の調子はもうだいぶ良い。夕食はコンビニ弁当を食ったのだが、呼ばれて飲み屋へ行く。

本屋で『必読書150』を買う。これが話題になってたころは「ニュー・バカ」「知の3バカ」的なイメージがあったのでかなりバカにしていたが、改めて読んでみるとニューアカ自身がニューアカを否定しようとする行為の表れであるようで、ちょっと面白い。リストにスタニスワフ・レムの『ソラリス』が入っていたりとか、意味不明な点もあるが、概ね古典的な作品でかためてあって、実は普通に教養のためのブックガイドとしてよいのではないかと思う。こういう本がなくて昔から私も困っていた。それが「ニュー・バカ」達の中から出てくるとは考えもしないので今まで興味も抱かなかったが、真面目な話なかなか参考になる。学部生が読むべきなのは専門の本なんかではなくてこういう本だろう。まず学問というものが何なのかわかってないのだから、ちょっと前まで大衆でした、というような人間にいきなり瑣末な学説の話をし始めても意味がない。まあ、教える側も専門科目についての知識しかないから結局瑣末な学説の話しかできないのだろうが、学問というものが日本の近代化において持っていた意味などを丁寧に説明することからはじめないと、たとえば現実の生活から遊離した経済学の数式だとか民法の法解釈だとかドイツの社会主義政党の離合集散の歴史だとかをいきなり説明されても、その意義がわからないだろう。で、そういう糞みたいな大学に適応できるのは自分で補完的に常日頃学問の意義を考えている意識の高い学生か、先生の話を疑問を抱かず自己暗示的に暗記できるお受験マシーンだ。この事情は、私は理系ではないので推測だが、理系でも似たようなことが言えるのではないかと思う。科学がやりたくて理系に行った、という同級生はほとんどいなかったからだ。単に数学と理科が他の科目に比べて相対的に得意だから、という理由でみんな理系に進んでいただけであって、そういう彼らが大学の理工学部に行ったら、大学にまでいってわざわざ勉強せねばならない意味が理解できないだろう。せいぜい将来の就職のために、くらいの意識しかないと思われる。その証拠に、本屋の自然科学書コーナーに行くと、予備校講師が書いた「試験対策」の本がおいてある。入試対策ではない。大学生の期末試験用の参考書なのだ。いかに学生がラクして試験をパスしたいと考えているかがこれに表れているように思う。

『必読書150』を見ていると自分の教養のなさにびっくりするが、今後はこれを埋めていこうと思う。多分150冊読み終わる前に人生が終わるだろうが、ゆっくり進めていきたい。サブカルを語る人は、サブカルを肯定するにせよ批判するにせよ、こういう教養的な知識について全体的な理解があることが前提だと思う。なぜならサブカルを肯定する人とは古典にない可能性をサブカルにみるはずなのであって、そこでサブカルと古典の違いがはっきり認識されていなければならないからだ。まあ、サブカル内部においてもサブカルの古典的教養とその喪失、という問題があるのだが、そのへんはサブカルの人たちが怠惰だったというだけだろう。そもそもアンチ古典としてのサブカルが歴史性云々を言うのが少し滑稽だ。サブカルはアンチ古典なのではない、というのであれば、ますます人文的古典をおろそかにしてはならないということになる。歴史性が大事だと言うのであれば、SFだの映画だのに耽溺する前に、プラトンを全部読め、ということになるだろう。サブカルは現在性というか速度というか鮮度が大事なのであって、読者や視聴者たちの感性みたいなものがサブカル作品とその周辺に渦巻いているからこそ考察する価値があるのだと思う。

前々から私は自分の読書の仕方として、古典を読むのとラノベを読むのを交互に行ってきたように思う。それは、古典を読むことによって得られる効能とラノベを読むことによって得られる効能が、はっきりと種類が違うものだったからだろう。古典だけを読んでいてはラノベ的な効能を補給することはできないのだ。ということはつまり、サブカルには古典にない固有の効能が存在しているのだと仮定できる。ということはまた、サブカルを評価するに当たって岩波文庫とかの古典的名作を持ち出してくる、という態度が本質的に的外れだということをも意味しうる(私もたまにやるが)。また次のことも明らかになる。つまり、名作文学のヒロインを萌えイラストで描き直したりだとか、萌える哲学だとかなんとかという本は、総じて無価値だということだ。イラストが関心を引くきっかけくらいにはなるかもしれないが、個々の作品や思想の中身にまで萌えやマンガを導入することはできない。自殺念慮とともに文学や哲学を求める人間は、萌えを求めているのでは決してないからだ。そうしたアクロバティックな試みをしたもので唯一見るに値する本を書いたのは本田透だけだ。