hkmaroのブログ

読書の感想など

五月十日

五月十日。十二時間寝る。風邪のせいか、これだけ寝ても全く寝すぎた感じがせず、むしろ丁度良いくらいという感じ。いつもは八時間寝ると寝すぎて頭が痛くなる。適度な睡眠時間が七時間だという説は経験的には大体あっている気がしないでもない。六時間睡眠だと昼間眠い。昼飯はM岡さんから情報を得ていた東京チカラ飯とかいう店に行った。焼き牛丼。280円。まあ値段にしてはうまいほうだと思うのだが、米の上に肉が載っているだけである。これだったら自分ですぐ作れるんじゃないか。たまごご飯を店のメニューにしているようなもんである。夜はコンビニ弁当。

革命とは一体なんだろうか。革命家が何を求めて革命を起こそうとしているのかというと、邪悪な現政権を打倒して革命的主体の革命的独裁体制からなる革命政権を樹立し、革命的意思と革命的展望の下に革命的采配をふるって革命後の社会を作り出すことであろう。つまり、一言でまとめれば、理想社会を実現することであろう。そうであるならば、まず革命的独裁の前にどういった社会が理想なのかについての具体的な映像が、革命家の脳内に描かれていなくてはならないはずだ。この作業をしない革命家は必ず失敗するだろう。この作業ができなければ結局は政権を握っても権力の私物化がどこかで行われる。あるいは私物化でなかったとしても、革命的意思にノイズが混じることになる。ビジョンが徹底されていないからである。だから革命家は第一にユートピア小説に学ぶべきだと思われる。というよりも、革命家の才能はユートピア小説を書く才能とほぼ同じだと言ってもよい。ユートピア小説の世界を現実世界にも再現することこそが、革命家の究極の目的なのである。現政権の首領やその奸臣どもの抹殺などは、手段であり前段階に過ぎない。革命後の理想社会を語らない革命家は、すべてペテン師である。もちろん柄谷行人が言うように、そのような理想社会が必ずしも徹底的に微細に描かれていなくてはならないわけではない。それは革命後に徐々に細部が作り上げられるものでかまわない。しかし、革命後の理想社会として革命家がつまびらかにする「マニフェスト」が、民衆に何ら訴えない、何の魅力もないものであれば、革命政権もいずれは(別の革命勢力に動員された)民衆に打倒されるであろう。私有財産制の廃止、という理念の、どういうところに魅力があるのかを、共産主義者はまず民衆に向かって明らかにせねばならないのだ。私有財産の禁止とは、単に物を所有することが禁止されるということなのではなくて、誰も物を所有できないのだから、逆にあらゆる物が自分の物になるのと同じことなのである。いつでも欲しい物を使うことができるのが共産主義社会の魅力なのだ。つまり、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことができるのが共産主義社会だ。この魅力は、ユートピア小説において具体的に説かれることになる。

だから、私自身が革命家であるかどうかはとりあえずおいとくとしても、革命とは何なのかを考えるにあたっては、ユートピア小説を書くか、あるいはユートピア的空想をすることが必要だと思われるのだ。ユートピア的空想、とは言えど、どの部分からその空想世界を開示していくべきなのかについては、おそらく決まったことは何もないだろう。トマス・モアの作法にのっとって、『ユートピア』が扱っているのと同様の話題について空想してみてもよいし、経済のことが気になるならユートピア社会の経済のみをもっぱら説いても良いだろう。何しろ、ユートピア的空想が絶対に動かすことの許されない一枚の絵でなければならないということはないのだから。それは、一つの志向性のようなものである。といっても、たとえば私有財産の禁止であるとか、貨幣の禁止という事項は、社会主義的理想社会においては厳格な基準として存在していなければならないだろう。

私の理想社会の基準とは何か。私有財産の禁止も、貨幣の禁止も、各々非常に魅力的ではあるのだが、それよりも魅力的に感じるのは、人間と人間の相互の理解である。理解という言葉は、会話と言い換えても良い。人間同士が会話する社会、というと、なんだかみんなでリア充になってコミュ力上げていこうぜ的な宮台―宇野ラインの例の隠れフェミ的ペテンと同類に聞こえるかもしれないが、そうではない。むしろ重要な会話はリア充的なコミュニケーションではなくて非リア充的なそれだ。リア充的なコミュニケーションが符牒に過ぎないことは周知のことと思うが、一般的にオタク的なコミュニケーションの様態と思われているネタ的コミュニケーションも符牒によるコミュニケーションという意味では全く同じだ。旬のアニメの話題で盛り上がるオタクたちも、話のネタが違うだけで、ネタ=符牒に頼るコミュニケーションをしている時点でリア充なのだ。そうではなくて、人間が何かを語る際に、符牒では回収し切れない非リア充的な実存をこそ交換し合う社会が、私の今現在の理想の社会だ。これは普通理想の社会像として語られる社会の様態ではないかもしれない。しかし、このような、人間の実存的な部分を大事にしたり尊重したり話し合ったりする社会は、私有財産と貨幣の禁止という条件から必然的に導き出される条件を備えているかもしれないし、それらの条件は互いに必要十分な命題の異なる表れかもしれないのだ。会話の符牒性と、商品の記号性とは、互いに密接に関連していると思われてならない。人間が記号というものをどう考えているのか、という認識論的問題に踏み込まねばならないのだ。資本主義を芯から考えることは、哲学的認識論を、じっくりと基礎的に考える過程をスキップしては、ありえない。だから、革命的夢想家には一種の忍耐力や、粘り強さが求められる。ゆえに、革命家の条件とは、空想家の想像力と勤勉家の忍耐力を同時に兼ね備えていることである。それに加えて、人気者の才能も必要かもしれない。人気者の才能については、自分に徹底して欠けているものとして常々認識しているが、これについては日を改めて書いてみることにしてみたい。