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hkmaroのブログ

読書の感想など

ARE第四号の紹介

我々中島総研は、機関紙である「ARE」第四号を出版し、去る五月六日、東京流通センターで催された文学フリマ会場にて頒布した。買ってくださった方、読んでくださった方、どうもありがとうございました。

以下に一部抜粋して内容を紹介する。

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ARE 004
ライトノベル大特集号

INDEX

ライトノベルレビュー
マルクス主義的ラノベ書評」
 『東雲侑子は短編小説をあいしている』
 『黄昏色の詠使い イヴは夜明けに微笑んで』
 『マージナル・オペレーション』
 『ドッペルゲンガーの恋人』
 『桜色の春をこえて』
 『おおコウスケよ、えらべないとはなさけない! 1〜2(完結)』
 『武装中学生2045 ―夏―』
 『妹がスーパー戦隊に就職しました』
 『JSが俺を取り合って大変なことになっています』
 『も女会の不適切な日常1』

■クソラノベメッタ斬り!

■『神様のメモ帳』のメモ帳

■『悲鳴伝』と『スピン』と西尾維新山田悠介酒鬼薔薇と脱社会性


執筆者プロフィール
■hkmaro(えいちけーまろ)

1983年熊本県生。早稲田大学法学部を6年生で卒業。所沢市在住。

学生ニートとしての経験を数年間経て就職し、現在もワーキングプアとして活躍するかたわら、批評系の同人サークルとして中島総研を学生(がくしょう)とともに創立、同時に機関紙『ARE』を共同で創刊する。
(記名:hkmaro)

■学生(がくしょう)

1985年東京生。山梨、福井、埼玉を経て東京在住。早稲田大学政治経済学部を6年かかって卒業。

携帯電話・スマートフォン向けの乙女ゲーやソーシャルアプリケーションを作る会社をあいキャンフライして凛として無職。なんだか色々あって笑ったりないたりできなくなってるが資本主義はやっぱり憎い。物心ついたときからセカイ系。なんだかんだでこの本も2年くらい続き4号が出せてうれしい。うれしいけど泣いたり笑ったりできない。
(略記:GS)


以下は本文の一部


■『東雲侑子は短編小説をあいしている』森橋ビンゴ

 すっかりライトノベルの概念と美少女の概念が結びついてしまった現代において、一体我々ラノベ読者は、ラノベ的美少女に何を投影しているのだろうか。何か可愛いものだとか、萌えるものだとか、守ってあげたいものだとか、はたまた戦闘美少女みたいに自分を守ってくれるものだとか、そういうものだろうか。でも、それは一貫していない気がする。そんなに色々なものを美少女に投影しているのにも関わらず、ではなぜそれらすべてが一様に美少女でなければならないのかには答えたことになっていない。可愛いものはまあ美少女であるということはわかるが、守ってあげたいものだとか守ってくれるものだとかが同時に性の対象でなければならない必然的な理由はない。そうなのだ、性の対象なのだ。ライトノベルを読む最大の目的(の一つ、とかいう言い訳も挿入しなくていいくらいだ)は、性の対象を獲得することなのだ。よくネットでライトノベルの表紙だけを何百冊分貼り合わせて一覧にした画像がアップされて「AVと全くおなじwww」とかいうコメントがつけられてるけれども、このコメントはおおむね間違ってない。AVと同じじゃないんだったら美少女を表紙に出す必要はないのだから、別に出さなきゃいいのだ。ラノベ以外の小説本は、まあ最近は少し事情が変わってきつつあるかもしれないが、それでも依然として性的なものを表紙にしない小説のほうが多い。ポルノでもなければ。
 とはいえ、とりあえず性の対象の探求者としてラノベ読者を定義したとして、じゃあなぜAVじゃなくて、ポルノ小説でもなくて、ライトノベルなのか、ということが問われなくてはならない。もちろんラノベ読者だって聖人ではないのだから、その多くがエロゲーを含むポルノグラフィーに接してマスターベーションに精を出しつつ、その片手間でラノベを読むというライフスタイルで生活していることだろう。ということは何だ、ラノベは性的なメディアでありながら、エクスタシーとかオルガスムだとかエレクチオンとかいったものとは無関係なのだろうか。でも、これは大いにありうることだ。性の対象と言ったら人を勃起させたり濡れさせたりするものでなくてはならない、というのもイデオロギーだろう。とはいえこのイデオロギーにも、少なくとも経験的な根拠と言うか、ある種のもっともらしさはある。勃たない性欲、なんて、存在する価値があるのだろうか、という疑問が湧いてくるからだ。なぜそんなインポテンツ的性欲が存在しているのだろうか。もしかしてこのインポテンツ的性欲は、生殖という人間の生物学的本能(っていうのもイデオロギーの可能性が高いけど、ここではおいといて)に由来しない、確かに性的な欲望ではあるけれど本来「性欲」という言葉で呼ばれるべきではないような何かなんではないか。ここではとりあえずこの性欲ならざる「性欲」を、性的欲望という意味での性欲と区別するために<性的願望>と呼んでおきたい。大枠で言って、プラトニックな恋愛感情なんかもこの性的願望の範疇に含まれると思う。もちろんここでは筆者が「性的願望」なる言葉を勝手に思いついて使っているだけで、他の論者が使っているかどうかは知らない。けど、似たような考え方は他の人も多分していると思う。
 この性的願望というものは、とりあえずで持ち出してみたけれどもなかなか扱うのが難しい厄介な概念で、性的欲望みたいに勃起したり濡れたりという目に見える証拠がなかなかないので、時にこじつけじみた論理を呼び寄せてしまう。たとえば性を心理学に大胆に導入した精神分析の始祖フロイトは、なんでもかんでもを筆者が言うこの性的願望のバリエーションとみなしたから批判された。別にそういう仮説を立てること自体は悪いことじゃないと思うが、みんなが納得いく形でそれを実証できなかった。
 とはいえ、ラノベ読者がいつもいつもチンチンおっ勃てて(いや、中にはいつも勃起してラノベ読んでる人もいないとも限らないが)ラノベを読んでるわけではない。でもラノベはどう考えても性的である。この二つの現象を整合的に説明するには、性的願望とでもいったものを仮定しないと不都合なのだ。だから、厳密に調べたらもしかすると性的願望は性的欲望の小さいバージョンに過ぎないのかもしれないし、もしかしたら世の中のラノベ読者だって実は美少女なんかにあんまり価値を見出してなくて、勝手に誤解した出版社や作家がバンバン美少女をおしてるだけなのかもしれない。一消費者でしかない筆者にはわからないが、でもそんな風に考えてしまうと何も言えなくなってしまうので、ここでは性的欲望とはまた別の、性的願望というものが実在するという前提に立って話を進めていく。
 で、もっと具体的に性的欲望と性的願望の違いを考えていくと、性的欲望とは究極的には性的刺激に還元できると考えられる。たとえば、オナホールなんてのは穴そのものであって、美人なネーチャンの顔だとかおっぱいだとか尻だとかいう魅惑的なものは何もなくて、ただチンチン挿れると気持ち良い穴があるだけ。でも気持ち良い。オナホール使ってオルガスムに達したら、一応性的欲望は満たされてしまう。ということは、現実のセックスではセックス相手の顔もおっぱいも尻も重要だし、それによって興奮もするんだけど、あくまでそれらの視覚的情報(ときには嗅覚的味覚的聴覚的情報)は性的欲望を効率良く満たすための補助材でしかないことがわかる。さらに、エロマンガの看護婦さんがよくやるけれども、男性の肛門に指突っ込んで前立腺を直接刺激すれば、性的な知覚は何もしてないのに刺激だけで達することも可能だ。この場合ペニスにすら触れなくていい。性的欲望は性的知覚と性的刺激によって達成されるが、本当に必要なのは性的刺激だけだ。
 ということは逆に、性的刺激なき性的知覚、というものを考えてみることもできる。もちろん美人なネーチャンのおっぱいやケツは、性的知覚に過ぎないにも関わらずペニスを勃起させる性的刺激でもありうるのだが、たとえば美人なネーチャンの顔だけで勃起してたりしたら人間が社会で生きていく上で不都合だ。美人なネーチャンの顔はセックスのときにも性的欲望充足に役立つ大切な性的知覚の対象だけれども、しかし顔だけであれば勃起しないままで過ごすことができる。ということは、これこそが性的願望の対象物の領域にあるものなのではないか。チンチンを勃たせるまではいかない、性的欲望とは無関係でもありうる上で、なおかつそれでも十分に性的だと言えるもの。これが性的願望の求めるものだった。細かく言えば、この性的願望の対象は、性的刺激なき性的知覚情報のみに限られる。そしてこのような中途半端な領域は、「そういうものを見るたんびにいつでも勃起してたら社会生活上不都合だから」という理由で生まれてくるのだと考えることができる。つまり社会が関係しているのだ。
 で、ここでようやくラノベの話に戻るが、では美人なオネーチャンの顔とラノベではどう違うのか。性的願望を満たすだけであれば、美人女優の顔を恋愛映画や恋愛ドラマででも眺めてればいいはずだ。なんで美少女イラストと萌え萌えなストーリーで構成されたラノベでなくてはいけないのか。この事情に、ラノベの「裏切らなさ」みたいなものを代入してみたい。たとえばラノベに登場してくるヒロインは、そのほとんどが初恋の感情を主人公に向けるし、複数のヒロインが登場する場合はそのほぼ全員が同じく初恋の感情を主人公に向けるし、主人公以外の美少年が登場してもそっちに心変わりするようなヒロインはまずいない。そういう話の割合がかなり多い。もちろん、ラノベ以外のエンタメにおいてもいわゆるお約束を裏切らない磁場みたいなものは存在している。テレビの時代劇なんかは典型的だろう。性的願望に関連させれば、大抵の恋愛小説にもそういうお約束はあるだろう。自称「平凡な女の子」が主人公の少女マンガも、こういうお約束に意識的にか無意識的にかハマっていることも多いだろうと思う。だが、そのお約束の中身にラノベに特徴的な要素があるのだ。ラノベにおいて決して読者を裏切らないのは、作家でも編集者でもなく、他でもない、美少女である。一作家の意思がどうであろうと、一読者がどんなにアバズレの美少女を読みたがっても、ライトノベル読者の大多数は絶対に裏切らない美少女を欲しているのであり、その願望の集積としての美少女たちは、もはや決して読者を裏切らない。そういう構造ができてしまっている。
 ということは、ラノベの美少女達は、同語反復的ではあるが、あらかじめラノベの読者が読みたいと思っている美少女の姿を概ね体言しているのであって、つまりラノベというのはどこまで行っても「想定の範囲内」なのだ。もちろんこのことは、水戸黄門が何十年にもわたって印籠を振りかざして旅してまわっているのと同じであって、ラノベだけが「閉じている」などというつもりは全くない。しかし、ラノベは特に性的願望が関わる領域において「閉じている」。まあ、そのかわりにラブコメ的お約束さえ守られていればなんでもありで、ファンタジーだろうがSFだろうが時代劇だろうが学園ものだろうがごちゃまぜにしてしまえるところなどは、むしろ異常なほど「開かれている」と言って良いだろう。
 で、美少女が読者の脳内に既にあったものが紙に焼き付けられただけの存在だ、と大胆にも言ってしまうとするならば、ラノベ読者がラノベを読み美少女と戯れ愛でることがどういうことを意味するかと言えば、それは自分自身と戯れて自分自身を愛でることを意味しているのだ。ただし、ある一人のラノベ読者が自分自身を愛でている、というわけではなくて、ライトノベル読者の集団という、沢山の人間が集まって構成されている社会的有機体が、ライトノベルを通して有機体自身を自己愛撫している、ということなのだ。
 さて、ここまでのことを前提としておいて『東雲侑子』を読んでみると、主人公の「鈍感」は、まあラノベに限らずギャルゲーやらエロゲーやら萌えマンガやら萌えアニメやらにありふれた典型的な主人公像なのだが、しかしこの「鈍感」がキレイに線対称的にヒロインである東雲侑子に写し取られていることがわかるはずだ。そして、主人公は東雲侑子が自分と同じようなことで悩んでいたことに気付き、喜ぶ。「もしかして自分は相手に好かれてないのでは……? 相手はもしかして自分じゃないアノ人が好きなんじゃ……?」こういう全く同じ杞憂に二人は頭を悩ませていて、ラストのカタルシスは、その悩みが杞憂だったということが明らかになることによって得られる。実は相手も自分と同じことで悩んでたんだ! 何も悩むことはなかったんだ! っていう喜ばしいムードで物語は終わる。
 でも、これって良く考えたら相手も自分と同じだったことに気付く話なわけで、つまりラノベに出てくる美少女なんてのは実はほとんど全部が自分自身の変化した姿に過ぎないってことを気付くことにもならないか? ラノベの美少女を「読んで」いたはずが、その美少女の顔がいきなり自分の顔になったら気持ち悪くないか? でも、この小説ではそれこそが「気持ち良さ」の最高潮である。これは不思議なことではなくて、なぜならラノベ自体がそもそも自分の願望を具現化して読める小説だったからだ。美少女の仮面の裏側には自分自身が潜んでなくては意味がない。だからこそこの小説はライトノベルの傑作なのだ。とことんまでに自己愛的な小説だから。革命力75。(hkmaro)


■『黄昏色の詠使い イヴは夜明けに微笑んで』細音啓

 本編の内容そっちのけで、

 「『まさか、後罪(クライム)の触媒(カタリスト)を<讃来歌(オラトリオ)>無しで?』教師たちの狼狽した声が次々と上がる。」


 の1節だけが一人歩きして有名になってしまった小説。2chのスレなどでは、これをもって本作はいわゆる「厨二ラノベ」の典型として、そしてしばしば「ラノベ(全般)の典型」として揶揄されている。
 確かに、ポエジー溢れすぎて富栄養化状態の詠唱シーンや、乱発される怪しげなルビ付きの専門用語を指して直感的に「厨二ラノベ」と呼ぶこと自体は間違ってはいない。
 しかしながら、上記の理由をもって本作を「厨二ラノベ」の「典型」と見なしてしまうと、見落としてしまう重要な点が2点ある。まず、第一に確かに謎の詠唱や謎のルビ乱舞は一部の(=「厨二」っぽい)ラノベの定番ではあるのだが、ここまで過剰にバロック的様相を呈している作品は、さすがに「厨二」ラノベの中でも稀であるということである。本作は「厨二」ラノベの中でも極北といってよい地位を占めているのであり、最も極端なはずのものがカテゴリ全体を表象してしまっているという奇妙な状態が持続しているのである。これはラーメンを知らない人に対して「ラーメンの典型」としてラーメン二郎を紹介するようなものだ。『黄昏色の詠使い』シリーズは、「大方のラノベ読者にとってすら奇異」なのであって、そこにはラノベというジャンル小説の中での文化的オリエンタリズムが存在する。
 第二に、前述のようにオリエンタリズムが前景化することで、その反対側に存在するはずのオクシデントが見えなくなっている点である。そして、そのオクシデントに存在するものこそが、「オリエンタルな」造語やルビよりも、より一層本質的な「ラノベ性」を備えているように思える。芝居がかった大仰なセリフの応酬が当然のように発生したり、ゲームの戦闘システムを模したやたらとソリッドなルールが世界観に含まれることは、ライトノベル全般がTRPGやRPGの大きな影響下にある以上、ある種の必然なのだが、こうした影響を節操なく、そして安易に取り入れることがライトノベルの大きな特性のひとつである。
 本作における「安易さ」を1つ挙げよう。詠唱場面は「セラフェノ音語」という独自の造語によって長々と描写されるのだが、英語のアルファベットで表記されるこの「セラフェノ言語」は、(ファンサイトによれば)ほぼ英語と同様の文法構造に独自の単語を当てているもののようだ。更に、Be動詞に相当する単語の語形活用が存在しないらしく、ということは地球上の近代言語の中でも指折りに単純な英語と比べて、さらに単純な言語ということになる。人工言語を用いたファンタジー小説といえば、まずトールーキンの『指輪物語』だが、「ハイ・ファンタジー」と呼ばれる『指輪物語』をここまで見事に(そしてローに)なぞってしまうような姿勢こそが、「オラトリオ無しで?」に比べば一見地味ではあるものの、本質的なラノベ性なのである。
 そもそも、「学園ファンタンジー」あるいは「魔法学園モノ」というジャンル自体が「学園モノとファンタジー両方やりてえ!(読みてえ!)」という安易さ極まる願望の投影なのであり、だから本作にはファンタジーなのに、さしたる文明水準の描写もないままに学内に冷房や時計やイルミネーションが(名詠法的な説明が付いているのだろうが)当然のように登場する。イブマリーがネイトを育てたことも、読みようによっては死後の自分を召喚させるために養育していたようにも取れ、こうした他者を手段化することへのためらいの無さや無自覚性も、ラノベにつきまとう「安易さ」の1バリエーションだと言えるだろう。異常なラノベがあるのではない。ラノベの全てが異常なのである。そして異常さとは、安易さのことなのである。本作がラノベ全体の異常性に対する目くらましとして機能してきたことや、全体を貫通する母権的な反動性を鑑み、革命力30。(GS)

本誌および中島総研に関するお問い合わせは、ツイッターアカウント@nakashimasouken まで。