hkmaroのブログ

読書の感想など

五月三日

五月三日。小雨。昼飯は新所沢のRo-seというイタリア料理屋へ。超うまい。散歩し、豆うさぎという住宅街にある喫茶店でコーヒーをすする。それからARE用に西尾維新の『悲鳴伝』(結局買った)について書く。夜はデニーズでタンタン麺食う。書いてて気付いたが、メシにだけはゴールデンウィークらしく金を使っている。

メディアと距離について考える。メディアとはここではテレビ・新聞・ネットなどに限らず、むしろマンガ・映画・ゲーム・音楽・小説などのサブカルチャーを念頭においている。私は高校生までマンガが大好きで毎日毎日飽きもせず同じマンガばかり読んでいたし、マンガだけでなく音楽も好きで毎日毎日飽きもせず同じCDばかりを聞いていたし、中学生時代まではゲームが一番好きだったので毎日毎日飽きもせず同じゲームばかりやっていた。映画こそ好きではなかったものの、そうしたメディアの力によって私は生きていたと言っても良い。そして自分を生かしてくれている各々のメディア的果実に神話的な力を感じていて、「信仰心」のようなものを抱いていた。よく自分の好きなマンガなどを他人に勧める場合「布教する」という言葉を使うが、全く適切だなと思う。私自身は中学高校時代に同級生に筋肉少女帯BUCK-TICKを布教しようと試みていた。私をしてそうさせるような神話的な力が各作品や作家にあったからこそ毎日同じものを愛でることができたのだと言える。しかし大学生になり東京に出てきたとたんにそれらメディアに対して「信仰心」が働かなくなった。どんな作品や作家に対しても不思議と相対化できるようになった。できるようになった、とは言ってもこれは良いことばかりでもない。あんなに好きだったマンガを全然読まなくなったのは何故だろう、とか、ゲームを全くやらなくなったのは、とか、音楽もとっかえひっかえにしか聞かなくなったのは、とか、考えることがあって、それらの対象に熱中できないということは、明白に精神生活の彩りに欠けているように感じていた。それにもかかわらず、昔のようにサブカル的な対象に「宗教」的にのめりこむことはできなかった。

それがどうしてだったのか、今はなんとなく理解することができる。距離の違いがあったからだ。メディア的果実の湧き出す泉であるところの、日本の中枢・東京からそれなりの距離があることは、地方にいる自分自身がそれらの果実に直接触れうるという希望とも不安とも無縁であり、故に神格化することも蔑視することも極限まで可能だ。東京で活躍する作家達が、地方に在住している自分にはできないことを代理してくれている、という幻想に浸ることもより容易になり、自分のムラでは他に誰も聞いていないようなコアなバンドのCDを持っていることがそのまま自分のステータスになりうる。東京にいるとそう素朴なままではいられない。数々の作家達が現実に生きている都市と同じ場所で生活しているのだ、というリアル感が、それも突き詰めれば幻想ではあるものの、マンガや小説に頻繁に出てくる渋谷だの新宿だの池袋だの秋葉原だのを実地に歩くことによって、にわかに持ち上がってくる。メディアの視聴態度にもそれは如実に影響を与えて、例えば田舎にいた頃は熱心に信仰している一つの対象を毎日視聴する、というのが主な態度であったのに、東京にいると、何か面白いものはないか漁るような態度になり、一つの作品の反復的視聴よりも、多くの作品を一回視聴することのほうが大事なように思えてくる。

今現在はその中間ともいい得るベッドタウンであるところの埼玉県所沢市に起居しているのだが、周囲のメディア・ショップにろくなものが置いてないからこそ「漁る」行為からある程度距離を置きつつも、気が向けば都心にも出られるがゆえに「相対化」を忘れることもないという、一種理想的なメディア・ライフを送れているような気が少しだけする。周囲に山とか畑しかない、メディア人間にとって絶望的な環境であるド田舎での生活と、それとは真逆の東京での生活と、最後にそれらの中間である郊外での生活とをそれぞれした経験を経た私は、起居する土地の性質がメディアの受容の仕方を規定するということをよく考える。