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hkmaroのブログ

読書の感想など

五月二日 八王子バスジャック少年と山田悠介

五月二日。昼飯は西早稲田のラーメン屋。ラーメンチャーハンセット。相変わらず濃い味付け。夜は西友の298円弁当にオプションで20%引きおにぎりを追加。

今日みたいな天気は、どしゃぶり、と言うらしい。しかし、私は今日ぐらいの雨ではどしゃぶりだとは思わない。私の実家、熊本では、どしゃぶりと言ったらもっと激しい雨のことを表現していたように思う。それに、子供の頃の思い出だからそう感じるだけなのかもしれないが、実家のほうではもっとどしゃぶりらしいどしゃぶりの頻度が高かったように感じる。

八王子でバスジャック未遂をしでかした中学三年生が、同じような犯行を描いた小説を参考にして事件を起こしたことがニュースになっている。この小説とは、ニュース記事でははっきり書かれていないが、山田悠介の『スピン』であることはおそらく間違いないだろう。インターネットで知り合った六人の少年が各々でバスジャックをする、という筋書きに当てはまるのはこの小説くらいだと思われる。いろんな所で山田悠介バッシングがまたぞろはじまったりだとか、あるいはこれを好機としていろんな「団体」がいろんなものの規制を訴えたり、行政が規制に積極的になったりとしだすのかもしれない。そういうことは毎度のことであって、それらの批判に対して擁護の「論陣」を張るドンキホーテの登場ももはや風物詩めいてすらいるのだが、小説だとかマンガだとかゲームだとか映画だとかを規制すべきと考えるにせよ擁護すべきと考えるにせよ、それらに先立って重要なのは、事実関係として中三の犯罪者が小説を参考にしてしまったということであって、実質的に小説が影響を与えたのかどうかという議論とは全く別の位相で、犯罪を犯すタイプの少年もこれらの媒体に接している、ということに送り手も受け手も注意深くあるべきだということだ。人殺しの描写は面白い。スリルがある。緊迫感を容易に作り出せる。が、それは作る側にとっては明白なリスクを伴う。『スピン』的な物語を市場に流通させてしまった作家たちが、世間に対して「遺憾の意」をでも表すにとどめたりだとか、あるいは全然逆に「私は全く悪くなく、悪いのはIQの低いキチガイ少年犯罪者である」などと開き直ったりすることにはどちらにしろ誠実さも効力もひとかけらすらない。私は人殺しの表現は作品にあってもよいと思う。人殺しの表現がダメだというなら、有名なドストエフスキーの『罪と罰』もダメだということになる。しかし『罪と罰』の人殺し性が何によって社会的に許容されているかというと、その「芸術性」によってである。決して「倫理性」みたいなものによってではない(そういう誤解はあるかもしれないが、『罪と罰』の殺人者は自らの殺人を最後までちゃんと反省してはいない)。古典的文学の差別表現なども、「芸術性」の故に保存されている。差別は差別として残っているのである。しかし、「芸術性」なんて言葉が空手形であることは自明だ。そうしたものは存在しない。だが、「空気」としてなら存在しうる。受け手が努力すべきなのは、そうした「空気」を醸成していくことであろう。山田悠介読者はその作品を現実世界の犯罪と無縁にしておきたいならば、彼の小説を「芸術」だと言わねばならない。これは擁護するしないという話とは全く別の問題だ。擁護されるより批判されることのほうが多い「芸術」も存在するからである。「芸術」というまやかしの中に山田悠介作品を置くことができない読者しか山田悠介が持たないのであれば、彼の小説が弾圧されるのもやむを得ない。中学三年生がバスジャックして人を刺したりする、という内容の彼の小説を読んで、あまつさえ参考にまでして、犯罪を犯した中学三年生がいる、という事実に対して、「メディアと犯罪は無関係だ(と仮定すべきだ)」的な擁護論は、仮にそれが正しかったとしても世間的に受け入れることが不可能だ。金儲けの為に書かれた気晴らしのための小説に過ぎん、と思われている限り、人殺しを書かなくとも金儲けになる小説だって世の中には流通しているからには、こんなものは焚書すべきだという議論があって当然だし、もし私が私の家族をこうした中三バスジャック犯に殺されてしまったとしたら、その引き金になった(ように見える)、「芸術性」のかけらもない小説は、金輪際出版停止にして国会図書館からもなくすべし、と思わないでいられる自信はない。だが三島由紀夫大江健三郎の犯罪小説を読んで犯罪を犯した奴に同じように家族が殺されたと仮定したら、幾分かは小説に対する怒りは少なくなるように思う(当然ながら犯人に対する怒りはあまり変わらないだろうが)。それが「芸術性」の具体的な役に立つ効力なのかもしれない。「芸術性」は世間様から作品を守ってくれる繭みたいなものなのかもしれない。