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hkmaroのブログ

読書の感想など

四月三十日 『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(谷川ニコ)を読む

四月三十日。昼ごろ起きてだらだら過ごし、飯を食いに外出する。新所沢の早稲田書房に行き、二冊本を買う。亀仙人なる中華料理屋に行く。またラーメンを食う。このところラーメンばかり食っている。安かったが結構うまい。その後古本屋の祥文堂に行くが、めぼしい本はなし。店舗よりもネット販売の発送手続きで忙しそうにしていた。そのうち店舗型の古本屋は消滅するのかもしれない。私も一時期ネットで古本屋を開業しようと試みたことがあるからわかるが、注文はびっくりするほど入る。忙しすぎて仕事しながらだとかなりきつい。だから辞めた。本を読む時間がなくなっては本末転倒なのだ。しかし逆に言えば店舗開けてても古本屋街じゃないとマンガとかエロとかしか売れない時代なので、ネット古書店の景気の良さゆえにどんどん古書店はネット販売に軸を移していくだろう。店舗型の古本屋はどんどんブックカフェ化していくだろう。良いのか悪いのかわからないが、ネット通販だと送料分は最低でも払わないといけないので、五十円均一ワゴン的な古本屋文化がなくなっていくと思うのだが、それは少し寂しく思う。

夜は秋津の飲み屋で飲む。サラリーマンなる大衆居酒屋。安いし、酒が濃い。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(1) (ガンガンコミックスONLINE)

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正直『ちょく!』のときから大して進化していないと思うのだが、このマンガがえらいヒットしているのは、世間に潜在していた喪女というラベルを消費しようというモードを先取りしたからだろう。思い返せば『ちょく!』のときも比較的早く残念系美少女という流行を押さえていた作家だったとも思う。

このマンガは「リア充爆発しろ!」とか日常的に言って仲間と戯れている「非リア充」(=リア充)からも疎外されたぼっち喪女の孤独な日常を鬱なギャグで表現しているわけだが、喪女というラベルが消費の対象になっている以上、そのような鬱も「リア充爆発しろ!」的なコミュニケーションのネタにいずれなるだろう。つまり、「自分喪女なんで」的なコミュニケーションのネタとしてリア充どもの交流のツールへと堕落するだろうし、実際「ぼっち」「喪女」を騙るリア充はすでに沢山いるわけだ。そういう意味では極めて瞬間的な芸に過ぎない気がする。瞬間的にしろこういう手法がウケるからには全く無効というわけでもないのだろうが、しかし1、2年のサイクルでネットスラング的流行語が入れ替わっていく現代にあっては、「残念系」「喪女」などという個々のラベルの有効性が持つ射程は極めて短く、リア充どもの豚的な消費行動にそれらの安全圏も食い荒らされてしまうだろう。それゆえこのマンガの真価は、現在のように喪女自身にも届くし喪女を消費したいだけの豚にも届くという多義的状態からの必然的な移行に直面した際に、前者の側面を維持し続けられるかどうかにかかっている。どうせ喪女というモードは飽きられる。人気のためなら、もこっちが喪女から美少女へ成長する展開を描いても良かろうが、そこには既に本質的な喪女性は存在せず、ただの萌えマンガがあるのみである。本質的な喪女性とは、「喪女」というラベルに頼らずとも表現できる疎外感であり、そこにこそサブカル的で私小説的な名作となるための条件が存在するだろう。このことは売り上げとは本質的に無関係である。もこっちは過酷な喪女性を自己の実存にかけて問うとともに内省し続けてこそはじめて、時代を代表するある抽象的な人格モデルとして存在しうる。さしあたって私としてはもこっちが『ルサンチマン』のたくろーを超えられるのかどうかに注目したい。