hkmaroのブログ

読書の感想など

四月二十九日 藤谷治『遠い響き』を読む

四月二十九日。朝から昨日飲み残していたビールを飲む。ただの苦い水。じゃがりこをつまみにもう一缶空ける。眠くなり午後三時まで熟睡。最近慢性的に眠かったので気持ちよかった。

五時まで文フリ用の原稿を書いたり書かなかったりしながら過ごし、外出する。大変気持ちのよい気候で、あったかいぬるい風がふいていた。もっと早くに出かければ良かったと思う。新所沢駅前の、麺屋まるけいというラーメン屋に入る。普段ラーメン屋などに一人では絶対行かないのだが、この日は朝からすきっ腹にビールを流し込んでいたので胃が気持ち悪くなっていたから、麺類にしようと思った。胃が気持ち悪いなあ、などと考えながらもラーメンとからあげとライスまで注文してしまう。別にうまくもまずくもないラーメン。から揚げは、普通の味なんだけど値段が高い。棚にたくさんある漫画はなんなのだろう。

腹が膨れすぎて気持ち悪くなり、腹ごなしにと航空公園まで歩く。途中で巨大な団地を通り抜ける。アスファルトで舗装された地面の上で、野球をしたり走り回ったりしている無数の子供たちの姿を見る。子供が育つ団地の存在は大変重要だと思う。団地の画一性が気持ち悪いという風に文化的な人は思うかもしれないが、そういう文化的意識とブルジョワ意識との境目はきわめて微妙だと思う。都市で働くしかない経済的な事情があり、同時に郊外に住むしかない家計的事情があるならば、その郊外にたくさんの人が住める団地を作るということは、まさしく公的な需要のある社会施策であると言うべきだ。ただ、アスファルトの上では転んだときに痛かろうと思う。土の上で転ぶのとは違い、すりむく手のひらや肘や膝からは血がだらだら流れるだろうと思う。

航空公園にはアスファルトの代わりに芝がある。芝の上で、外国人の家族が親子連れで遊んでいた。外国人の子供がサッカーをしている。流暢な日本語をしゃべる子供たち。彼らは長じてから自分の血と故郷との間で葛藤したりすることもあるのだろうが、外国人でも子供を育てられるような懐の深さを日本社会が持つということは、日本人としてのアイデンティティを持つ人であったならば、本当の意味で国に対して誇りに思うべきことだろう。もちろん外国人の家族は日本人である私には想像もつかないような苦労とともに毎日を過ごしているのかもしれない(し、別にそうでもないのかも知れない)が、彼らのような外国人が日本人と同じように休日に利用できる大きな公園があるということは、日本社会の真の豊かさがまだ残っているということを意味すると思う。このような豊かさが減ることなく維持されればよいと思う。

また、日本人の家族連れも、当然ながらいた。父母子供。親子で体を動かす遊びをしている。スケボーやらローラースケートなど。母親がうまくできなくて、「明日も来ようか?」などと冗談めかして話していた。犬の散歩をしている人も多く見かける。

最近あらためて自覚したのだが、私はよその家の生活を見るのが非常に好きなのらしい。それは、なんというか他人の生活の裏側をのぞき見たい、というような意味ではなくて、別に裏側じゃなくてもいいので、というか裏側なんかのどろどろした部分は全然見たくないのだが、そうじゃない、楽しげに仲良さそうにしている親子連れとか、他人の家からもれ聞こえるテレビと歓談の音とか、夕飯の匂いとか、そういう生活の集積としての住宅地だとか商店の光景だとかに対して、やたら摂取したいという欲望を感じる。こうした欲望が、三丁目の夕日がどうしたとかいうノスタルジー幻想と同じ類のものかも知れないという点については自分でもかなり危ういなと思うのだが、そうした欲望がたとえば郊外というものについての関心につながっていたり、政治についての関心につながっているのであれば、悪いものではないとも思う。

それから新所沢まで歩いて帰り、パルコのリブロで西尾維新の『悲鳴伝』を買うかどうか大いに悩む。その場でケータイで西尾維新の小説のアマゾンレビューをいくつか読んでみたが、たとえば『少女不十分』のレビューの中には西尾の語彙があまりにも少ないことを指摘してあからさまに馬鹿扱いしているものがあった。つまり西尾維新とは一般人の目からしたら山田悠介みたいなもんとして認識されているのであって、むしろ萌えとかエロとかポエムとかが含まれる分西尾の小説のほうが一般人からすればバカ向けに見えるであろう。そういえば自分も戯言シリーズを読んだときはこみ上げてくる嫌悪感と必死に戦っていたな、と思い出し、少し冷静になることにして何も買わずに店を出た。山田悠介や、彼の作品のウィキペディアの項目がえらく寂しいことになっているのも面白い。西尾や西尾作品の項目とは大変な違いである。このことは、西尾維新の読者に比べて山田悠介の読者がウィキペディアなどに情報を集積しようという性向を持たないということを意味するだろう。ネットでの検索結果を比較するのも楽しい。山田悠介の場合はウィキペディアの次にはもう2ちゃんまとめブログの馬鹿にした記事が出てくるが、西尾維新の場合はちゃんと公式サイトや中立的なまとめ記事が出てくる。まあ、まとめブログが検索結果の上のほうに出てくる時点で両者とも社会的に似たような価値を持つ作家なんだろうと思うが、山田読者のほうがあまりネットに触らない読者なのだということくらいは言えそうだ。

遠い響き (講談社文庫)

遠い響き (講談社文庫)

社会の風俗を描くという意味での自然主義小説としてはなかなか面白い小説だった。奥田英朗荻原浩の小説に並ぶ価値を持つと思われる。現代ニッポンにおいてエンタメ・中間小説の領域に自然主義があるというのが面白い。私は大衆小説の歴史に疎いので、もしかしたら大衆小説にはそうした自然主義的伝統があるのかもしれない。しかし、この小説はオタク産業を題材にしている部分があるのだが、そこに出てくる「極悪エロ同人誌」なるものの存在が腑に落ちない。主人公の勤める会社は「極悪エロ同人誌」の売り上げで急成長したと述べてあるのだが、この「極悪エロ同人誌」なるものは幼女を殴ったり蹴ったり監禁したり四肢切断したり生きたまま解剖したりという、氏賀Y太的エロ同人誌のことを指していて、そんなニッチなジャンルを扱っているからといって、マスに訴えないそれが会社成長の起爆剤になるとは思えない。オタクというものを何か根本的に誤解しているか、さもなくば架空の社会を扱っているということになるが、そうすると自然主義小説としての価値はなくなってしまう。こういう変なアイテムは出すべきではなかった。

それ以外は概ねリベラルな価値観から日本社会を批判する、というような内容で、かといって主人公がリベラルなわけではないのだが、リベラルが疑問に思うようなことばっかり批判の対象にしてて事実上リベラルである。なかなか面白いのだけど、皮肉られている対象が保守論壇雑誌的オヤジ慰撫史観とか、ネオコン的外交とか、家庭の空洞化とか、PTAとか、社内の空気とか、ネトウヨ的汎オタク主義(クールオタク)とか、実体経済無関係のデイトレとか、そのデイトレーダーが戦争で儲かっちゃうこととか、なんか一昔前の社民的論客の言説をみているようで古臭い感じがする。しかもこれらは全部イデオロギー的なものに過ぎず、根本的に下部構造を批判するような言葉はない。つまり、この小説の持つリベラルさも単なる階級闘争の一派閥のイデオロギーに過ぎず、革命的な力は持っていない。ネオコンがオヤジ慰撫だというなら、リベラルは社民慰撫に過ぎない。ニヒリズムが足りてない。ゆえに簡単に言葉で解剖できてしまう。オランウータンの幻覚も、比喩とは言えないほどに明示的でつまらない。多様な解釈の余地がない。つまり、社民な価値観を持つ作者の憂さ晴らしでしかない。こういう小説を書ける素朴さは、逆にリベラルが馬鹿にされてしまう下地を作るだろう。

あと、巻末の町田康の解説も、適当抜かしてんなコイツ、というのがバレバレだ。なんだよ「御宅族」って。オタクなめんなよハゲ。知ったかこいてんじゃねえ、氏ね。